グプタ朝
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グプタ朝(Gupta Empire)は、古代インドにおいて、西暦320年から550年頃まで栄えた王朝である。イラン系の外来王朝であったクシャーナ朝に対し、グプタ朝はインドの土着王朝であった。グプタ朝は君主制を強化し、ヴィシュヌ神を信奉し、バラモン教を国教に、サンスクリット語を公用語にした。
チャンドラグプタ1世(位320年~335年頃)がパータリプトラを都として建国。マガダ地方から興起し、第2代のサムドラグプタ(位335年頃~376年頃)のとき、ガンジス川上流域や中央インドの一部まで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともに、デカンのヴァーカータカ朝と姻戚関係を結んで、南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。チャンドラグプタ2世(位376年頃~415年頃)のとき、北西インドのマールワとグジャラートに在った西クシャトラパを征服して、ついに北インドを統一し、全盛期を迎えた。この時期、東晋の僧、法顕が訪れている。なお、この頃、ヒンドゥー教が台頭し、仏教文化は衰退を始めた。第4代クマーラグプタ1世(位415年頃~455年)の治世は、玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダ僧院が設立されたことで知られるが、遊牧民エフタルの侵入によって衰退、その子、スカンダグプタ(位455年~467年)は、皇太子に打ち勝って王位を獲得、インド北西部領域の支配につとめ、かっての栄光を一時的に回復した。しかし、その後は、小地域の支配者層が独立して北インドは分裂状態となった。6世紀のグプタ朝の版図はベンガルとビハールに限られるようになり、550年頃に滅亡したと考えられている。
[編集] 美術と文化
グプタ朝時代に栄えた美術は、これまでギリシア文化の影響が色濃かったガンダーラ美術に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、グプタ美術、またはグプタ様式と呼ばれる。代表的なものとして、アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる。サンスクリット文学は最盛期の時代で、二大叙事詩である「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」、カーリダーサの戯曲「シャクンタラー」などが生まれる。マヌ法典も完成した。
[編集] 歴代君主
- チャンドラグプタ1世(320年頃 - 330年頃)
- サムドラグプタ(330年頃 - 380年頃)
- チャンドラグプタ2世(380年頃 - 414年頃)
- クマーラグプタ1世(414年頃 - 455年頃)
- スカンダグプタ(455年頃 - 470年頃)