パーヴェル・スドプラートフ
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パーヴェル・スドプラートフ(Павел Судоплатов;1907年7月7日 - 1996年9月26日)は、ソ連の職業的諜報員。中将。
[編集] 経歴
メリトポル出身。幼少の頃に両親を亡くして浮浪児となった。1919年、オデッサに出稼ぎに出て、日雇い労働者として働いた。
1920年、第14軍第41師団通信中隊の電信手補佐となり、キエフの政治職員訓練課程で学ぶ。1921年5月から第44師団の特別課で働く。その後、国家政治局(GPU)のジトミール・ヴォルイン県課で勤務。1920年代末、モスクワに移り、統合国家政治局(OGPU)人事課で勤務。
1932年から対外諜報。1935年~1938年、ドイツ及びフィンランドで非合法活動。1938年、対外諜報の次長となる。1938年11月6日から同年12月2日まで、対外諜報の長を代行。1939年~1941年、内務人民委員部(NKVD)国家保安総局の副課長。
独ソ戦時は、NKVDの第4局長となり、敵後方でのパルチザン、諜報・破壊工作を指揮し、枢軸国内のエージェント網の活動を調整した。
1945年5月、NKVD「F」(Ф)課長に任命され、「赤軍により敵から解放された諸国での業務」に従事。同年7月、原爆開発に関する情報の収集を使命とする「S」(С)課が創設され、スドプラートフが課長に、ナウム・エイチンゴンが副課長に任命された。1946年1月、S課は国家保安人民委員部(NKGB)に移管された。
1951年~1952年、ソ連国家保安省(MGB)第1局長。1952年、逮捕。ヨシフ・スターリンの死後、釈放され、ソ連内務省(MVD)第2総局(国外諜報)副総局長、後にMVD第9課(諜報・破壊工作)課長に任命。
1953年8月、「ベリヤ事件」関連で逮捕され、階級と勲章が剥奪され、精神病院に入れられた。1958年、禁固15年の判決を受け、1968年に釈放。1992年1月、名誉回復。1996年、死去。
1998年、中将の階級と受賞した国家勲章が回復された。
[編集] パーソナル
レーニン勲章、赤旗勲章3個、スヴォーロフ勲章、祖国戦争勲章、赤星勲章2個、「NKVD功労職員」胸章を受賞。