ビタス・ゲルレイティス
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ビタス・ゲルレイティス(Vitas Gerulaitis, 1954年7月26日 - 1994年9月17日)は、アメリカ・ニューヨークブルックリン出身の男子プロテニス選手。1970年代後半に活躍し、1977年の全豪オープン男子シングルスで優勝した。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス24勝、ダブルス8勝を挙げた。彼の活躍した時代は、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金期であり、同年代の選手としてビョルン・ボルグやジミー・コナーズなどの強豪選手がいたため、ゲルレイティスは現在の印象は薄い。しかしボルグと数々の熱戦を繰り広げ、良き友人でもあった。彼のプレースタイルは、素早いネット・プレーに定評があった。
1977年の全豪オープンは、1月の年頭開催と12月の年末開催の2度行われた。ゲルレイティスが優勝したのは12月の年末開催の大会で、決勝の相手はイギリスのジョン・ロイド(後にクリス・エバートと結婚した選手)であった。先にゲルレイティスが2セットを先取したが、ロイドが第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いつく。最終第5セットでゲルレイティスはロイドを突き放し、6-3, 7-6, 5-7, 3-6, 6-2 のスコアで初優勝を飾った。しかし、その後のゲルレイティスは4大大会で2度の準優勝に終わり、1979年の全米オープン決勝では当時20歳のジョン・マッケンローに 5-7, 3-6, 3-6 で敗れ、1980年の全仏オープン決勝ではボルグに 4-6, 1-6, 2-6 で敗れている。1986年3月、ベルギー・ブリュッセルの大会を最後に31歳で現役を引退した。
ゲルレイティスは1994年9月17日、ニューヨーク州ロングアイランドの友人宅に滞在していた時、睡眠中にエアコン装備が故障し、一酸化炭素中毒のため40歳の若さで不慮の死を遂げた。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス)
- ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (ツアーの公式ガイドブック、ゲルレイティスの追悼記事がある)
[編集] 外部リンク
- ビタス・ゲルレイティス - ATPツアーのプロフィール(英語)
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