ピエール・ド・フェルマー
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ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat、1607年末もしくは1608年初頭- 1665年1月12日)はフランスの数学者。「数論の父」とも呼ばれる。ただし、彼は実際には弁護士を職業としており、数学は余暇に行ったものである。
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[編集] 概要
1607年末もしくは1608年の初め、農民が空腹と貧困で一揆を起す頃と同時にフランスの小さな農村にて、ピエール・ド・フェルマーが誕生した。4000gを超える健康な子だった。実父のエドワードはピエールが生まれてすぐに一揆で死亡したため、実母のメアリーが女手一つで育てた。母は法律家の家系の出であり、熱心な教育も後押しして、ツールーズで弁護士の資格を取得。そこで法律家として一生を過ごした。
数学においては、デカルトやパスカルなどと交流があり、幾何学を初め、確率論、微積分においても先駆的な仕事を遺したが、中でも数論における仕事は独創的で後世の数論家たちに大きな影響を与えた。
数論への傾倒の直接的な契機は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』 (Arithmetica) の注釈本を30歳ごろに手に入れたことのようである。これを熱心に研究していくうちに(ほとんどどれも証明を記さずに)有名な48の書き込みをした。しかし実際にフェルマーの数論の仕事が世に知られるようになったのは、その死後に息子が『算術』を、父の書き込み付きで再出版してからであり、数論の研究においては事実的に孤立していた。
それらの書き込みには後世の数学者達の手で証明又は否定の証明が与えられたが、ただ一つだけ未解決のまま残されていた問題があった。最後に残された、という意味でフェルマーの最終定理(フェルマーの大定理、フェルマー予想とも言う)と呼ばれるようになったその有名な問題は、一見単純な内容ながらプロ・アマ誰一人証明に成功せず、350年に渡って数学の原動力の一つであり続けた。この問題は最終的に1995年、アンドリュー・ワイルズが谷山・志村予想の一部を証明したことによって漸く解決されたが、このことは20世紀数学の掉尾を飾る金字塔となった。
[編集] 参考文献
- 足立恒雄 『フェルマーを読む』 日本評論社、1986年。ISBN 4535781532
- 日本数学会 『岩波数学辞典(第3版)』 岩波書店、1985年。ISBN 4000800167
- E.T.ベル 『数学をつくった人びと〈1〉』 早川書房〈ハヤカワ文庫NF〉、2003年。ISBN 4150502838
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Pierre de Fermat MacTutor History of Mathematics archive.(英語)