フェリックス・ホセ
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フェリックス・ホセ(Félix José、1965年6月2日 - )は、元メジャー・リーグの外野手で、韓国プロ野球・ロッテ・ジャイアンツに所属するドミニカ共和国出身のプロ野球選手(外野手)。背番号は99。右投両打。
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[編集] 経歴
フェリックス・ホゼは18歳だった1984年1月にオークランド・アスレティクスと契約した。その後数年間はマイナーリーグで育成され、1988年にオークランドでメジャー・リーグデビューを果たした。当時のオークランドは第二次黄金時代を迎えており、ホゼが守る外野はホゼ・カンセコ、デイブ・ヘンダーソン、リッキー・ヘンダーソンらスター選手で埋まっており、1989年までは十分な出場機会が得られなかった。
しかし、ホゼの能力は高く評価されており、翌1990年、契約期間が切れた指名打者デイブ・パーカーとアスレティクスは再契約せず、空いた指名打者にカンセコが移ったため、ホゼに外野レギュラーの座が与えられた。しかし、ホゼは期待に応える成績を残せず(8月末まで打率.264、本塁打8、打点39)、ポストシーズンに向けて準備するオークランドは、8月末に巧打の外野手ウィリー・マギーをセントルイス・カーディナルスから獲得する代わりにホゼを放出した。
1991年、ホゼはシーズン当初から活躍し、4月の月間最優秀選手のみならずオールスターゲーム出場選手にも選出され、シーズン通して打率.305、本塁打8、打点77の好成績を収めた。翌1992年もホゼの打撃力は健在で、5月月間最優秀選手を獲得するとともにシーズン全体でも打率.295、本塁打14、打点75と前年並みの成績を残した。しかし、当時長打不足に悩んでいたセントルイスは長距離打者の獲得を目指しており、同年シーズンオフ、グレッグ・ジェフリーズとの交換トレードによりカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍した。カンザスシティでの初年度(1993年)は打率.253と低迷したが、1994年には打率.303、本塁打11、打点55と好打者ぶりを発揮した。
翌1995年5月に何らかの理由によりホゼはカンザスシティから放出された。その後、シカゴ・カブス、ボストン・レッドソックス、トロント・ブルージェイズと契約したが、ホゼがメジャーリーグに復帰することはなく、数年間、ホゼは独立リーグでプレーしていた。
転機となったのは1999年のことで、同年、韓国ロッテジャイアンツからオファーを受けたホゼはロッテと契約した(以降、韓国でのホゼを「ホセ」と表記する)。韓国へ渡ったホセは顕著な活躍を見せた。ホセの活躍もありロッテはプレーオフへ進出した。
三星ライオンズとのプレーオフ最終戦では盧長震から同点ホームランを放った。すでに第5戦でサヨナラホームランでプレイオフの流れを変えたホセだっただけに、3勝1敗の優勢を覆られる不安から興奮した三星ファンが多数グランドに物を投げ入れ、ミネラル・ウォーターの入ったペットボトルがホセの股間を直撃。ホセは激高して三星のファンが集まっていたスタンドにバットを放り込んだ。これで暴徒化した三星ファンとロッテ選手との乱闘となり、鎮圧に警官隊まで出動する騒ぎになった(この事件は「大邱の大乱闘」と呼ばれている)。ホセは退場処分となったが、試合はこの後ロッテが逆転勝ちして韓国シリーズ進出を決めた。
チームが韓国シリーズに出場したことで、彼に対する処分を巡っていろいろ意見があったが、韓国シリーズの興行の面を考慮した韓国野球委員会の裁定で、韓国シリーズへの出場は許容して、翌年のレギュラーシーズンで10試合出場停止の処分を下すことにした。
2000年は、ロッテとメジャー球団のオファーを両天秤にかけて、ニューヨーク・ヤンキースと契約。5年ぶりにメジャー復帰したホゼだったが、レギュラー選手が怪我をしたときのためのバックアップ選手であったため、満足な出場機会は得られなかった。
2001年にはメジャーからのオファーが無く、再びロッテに入団。1999年に課せられた出場停止処分をどう適用するかでまた議論を起こした。結局、韓国野球委員会の有権解釈で2000年シーズン1年間韓国でプレイしてないことに処分された10試合を含ませることて、この年は開幕戦から出場することができるようになった。この年の三星戦で裵英洙から受けた死球に怒り暴行を働いた。
2002年にはモントリオール・エクスポスとロッテとの二重契約が明るみになりロッテを解雇される騒動も巻き起こした。同年にはメキシカン・リーグのメキシコシティ・レッズでプレーしていたが9月にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍し、みたびメジャー復帰を果たした。翌2003年もアリゾナの一員として代打で18試合に出場している。2006年には5年ぶりで韓国ロッテに復帰している。
毎年シーズンオフに韓国球団とメジャー球団のオファーを両天秤にかけ、二重契約すら辞さずに有利な側と契約してしまうため、韓国には快く思わないファンも多い。しかし、1999年の活躍により、釜山(ロッテジャイアンツの本拠地)のファンからは絶大な支持を得ている。
日本の中日ドラゴンズが獲得を検討したことがあるが、二重契約癖の問題によって獲得は実現しなかった。
[編集] 略歴
- 投打 - 右投両打
- 出身地 - ドミニカ共和国
- 球歴 オークランド・アスレチックス(1988年-1990年途中) - セントルイス・カージナルス(1990年途中-1992年) - カンザスシティ・ロイヤルズ(1993年-1995年) - ロッテ・ジャイアンツ(1999年) - ニューヨーク・ヤンキース(2000年) - ロッテ・ジャイアンツ(2001年) - アリゾナ・ダイヤモンドバックス(2002年-2003年) - ロッテ・ジャイアンツ(2006年)
メジャー通算54本塁打の実績を残している。
[編集] 通算成績
[編集] アメリカ・メジャーリーグ通算成績(2006年シーズン終了時)
- 747試合 打率.280(2527打数708安打) 54本塁打 324打点 102盗塁
[編集] タイトル
- オールスター出場 - 1991年
[編集] 韓国プロ野球通算成績(2006年シーズン終了時)
- 371試合 打率.313(1244打数389安打) 94本塁打 302打点 8盗塁