フォート・エンシェント文化
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フォート・エンシェント(Fort Ancient)文化は、北米、オハイオ州を中心にケンタッキー州東部、ウェストヴァージニア州西部に紀元900年~1550年頃まで繁栄し、1750年頃まで細々と続いた文化である。
生業の基盤は、トウモロコシ、豆類、カボチャなどの農耕が中心であり、ヒマワリやアカザ科のキナパッド、そのほか狩猟採集をおこなっていたことがわかっている。
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[編集] 名称の由来
フォート・エンシェントの名称は、ウォーレン・キング・ムーアヘッド (Warren K.Moorehead) とその仲間たちによって発掘調査されたフォート・エンシェント遺跡の特殊性が認識されて文化の名称になった。
フォート・エンシェント遺跡は、南側の土木構築物とその下にあるリトル・マイアミ川に接した囲壁で成り立っている。
ムーアヘッドは、オハイオ州考古学歴史学協会のウィリアム・C・マイルズとともにフォート・エンシェントの囲壁は、フォート・エンシェント遺跡の周辺に住む住民によって築かれたことを仮定していた。1906年にムーアヘッドは、オハイオ州南西部の西暦1000年前後以降の遺跡群の文化名称として「フォート・エンシェント」を用いることを提案した。
[編集] 時期区分と変遷
フォート・エンシェント文化は、紀元1200年までの前期、1200~1400年までの中期、1400~1750年までの後期に区分される。この間にフォート・エンシェントの生業経済が少しづつ変化し、同時に村落の規模や形態、存続期間、家屋や他の木造建築物の形の多様性、埋葬行為の変化、土器の形状の変化、地域的結合や社会構造も変化していった。
フォート・エンシェントの集落は、沖積地より形成される河岸段丘や谷を見下ろすがけの上などの高台に営まれた。フォート・エンシェントの人々は10年か場合によっては数十年間同じ場所に住み続けた。
フォート・エンシェントの住居は若木を用いて長方形か円形に柱を建ててむしろ葺きか樹皮を用いるか獣の皮を用いて骨組みを覆っていたと思われる。
フォート・エンシェントの初期の集落は、ほんの数軒の家によって形成されていた。おそらくは、拡大家族程度の人々によって構成された集落であったと思われる。こういった集落はそれほど長期間にわたっては営まれなかった。相対的に大きな建物はあったものの、大部分は小さな住居であった。
フォート・エンシェントの中期の集落は、規模もおおきくなり長期にわたって営まれるようになる。多くの集落は環状に内側に広場を囲むかのように形成された。集落の構造は、住居が一番外側に営まれ、貯蔵穴やごみための穴は住居の環の内側につくられた。埋葬のおこなわれる区域はさらに貯蔵穴の内側かその近く、あるいは集落の内側の部分に土坑墓を築いて埋葬された。
中庭(プラザ)という形態は集落で行う儀礼の重要性が増したことや蓄積された知識や伝統を分かち合って伝えるためであったと思われる。それは同時に、「プラザ」という場所において共同体の絆を強化する役割が担わされていた。防御柵を村の周りにめぐらす集落やトウモロコシやその他の作物を育てる畑を隣接して持っている集落もあった。 フォート・エンシェント期の集落は一種類のパターンで書き表せるものではなく、フォート・エンシェントの初期から中期にかけて地域的な違いがたとえば出土遺物などで表される物質文化面での違いとしてあり続けた。
紀元1400年以降、フォート・エンシェント文化はより均質化していった。その範囲も収縮し、オハイオ河谷とその周辺の集落に集約されるようになった。埋葬や動物やその他さまざまな形状をした墳丘墓はフォート・エンシェント文化によって形成される景観の一側面といえる。円錐形に近い形の墳丘墓は、紀元1300~1400年にかけてフォート・エンシェントの遺跡で造られた。よりなだらかな低いマウンドは通常村落の内側の「プラザ」の近くに造られるか、居住区のすぐ外側に接して造られた。墳丘墓は、通常複数の人間が葬られた。フォート・エンシェントの人々はいわゆる「形象墳」 (effigy mound) を造ってきた。
最近の研究で、オハイオ州にみられるはっきり動物を意識して造られた「形象墳」が、たとえば、アリゲータ・マウンド (Alligator Mound) やサーペント・マウンド (Serpent Mound) が放射性炭素14による年代測定によってアデナ文化やホープウェル文化のものではなくフォート・エンシェントのはじめごろのものであることが明らかになってきた。
- ただし、サーペント・マウンドは、複数の人物が葬られた特徴がある一方、他のフォート・エンシェントの遺跡と異なって副葬品がみられない。盗掘されたためか。
フォート・エンシェントの集落はそのような形象墳の近くに営まれた。少なくともオハイオ州ロス郡のBournvilleの近くにあるBaum遺跡のようにひとつの墳丘墓によってフォート・エンシェントの遺跡であるとわかっているものもある。
17世紀になると蓄積された内的な変化と外圧、つまりヨーロッパの文化が入ってきたことによってフォート・エンシェント文化の栄えた大部分の地域は人口が減少して放棄されるようになった。そのため、フォート・エンシェント文化の時期を16世紀までとする考え方もある。
フォート・エンシェント文化の担い手である人々の運命はどのようになったかということははっきりしていないが、アルゴンキン系の人々、特にショーニー族の先祖だったのではないかと考える研究者が多い。
[編集] 現在の遺跡の状況
今日、フォート・エンシェント文化のものと考えられる遺跡で公共で見学用に管理されているのは、デイトン (Dayton) にあるサン・ウォッチ (San Watch) の村落遺跡である。 フォート・エンシェント中期に属するこの村は、フォート・エンシェントの村落の規格とか建築的な特徴を明確に示せる遺跡として復元公開されている。
そのほかにもフォート・エンシェント文化の面影は、アリゲータ・マウンド、エディングトン・マウンド (Edgington Mound)、ヴォス・マウンド (Voss mound)、サーペント・マウンドなど公的に管理されてアクセス可能な遺跡に見ることができる。
[編集] 参考文献
- Woodward,Susan L. and Jerry N. McDonald
- 2002- Indian Mounds of the Middle Ohio Valley: A Guide to Mounds and Earthworks of the Adena, Hopewell, and Late Woodland People (Mcdonald & Woodward Publishing Company)