フランシス・ドレーク
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フランシス・ドレーク | |
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1543年 - 1596年1月28日 | |
渾名 | エル・ドラコ |
生誕 | 南イングランド |
軍歴 | 1580年 - 1596年 |
階級 | イギリス海軍中将 |
戦闘 | アルマダ海戦 |
フランシス・ドレーク(Francis Drake, 1543年? - 1596年1月28日)は、南イングランド生まれのイギリスの海賊、私掠船船長、海軍提督。「エル・ドラコ」(もしくはエル・ドラゴ)の異名で知られる。
親戚であるジョン・ホーキンスの下で奴隷貿易に従事していたが、1568年、自ら船を調達して船長となり、1570年以降、西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を開始。
1577年11月、排水量約100tのガレオン船ゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻の艦隊で、プリマス港を出航。
大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪う。 その中にはスペイン王の財宝を満載したカカフエゴ号などが含まれる。 カカフエゴ号には銀26t、金80ポンド、貨幣と装飾品13箱など合計20万ポンド相当が積載されていたとされる。
その後、太平洋を横断してモルッカ諸島に、さらにインド洋から喜望峰を回って、イギリスへと帰国し、フェルディナンド・マゼランに続く史上二番目の世界一周を達成した。この途中、1578年にホーン岬とドレーク海峡を発見している。
1580年9月に、生き残ったゴールデン・ハインド号のみがプリマス港に帰港し、イギリス女王エリザベス1世に金銀財宝を献上した。この額は30万ポンドを越え、当時のイングランドの国庫歳入よりも多かった。この功績により、イギリス海軍の中将に任命されると同時に叙勲を受ける。
1581年、プリマスの市長に選ばれる。しかし、スペインとの国交悪化から再び海に戻り、スペイン領への攻撃を率いる。
1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃。
1588年のアルマダ海戦では艦隊副指令に叙任され、イングランド艦隊の実質的な指揮をとり、火のついた船を敵艦隊に送り込むという海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させる。
1594年から西インド諸島襲撃を実施するが、スペイン軍の堅い守備を打ち破ることは出来ず、1596年に赤痢に倒れ、病床で鎧を着ようとするなど錯乱状態のまま死去。
タバコは1585年にドレークが初めて西インド諸島から持ち帰ったものとされている。[要出典]
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