フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)
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フリードリヒ1世”バルバロッサ”(Friedrich I. Barbarossa,1123年 - 1190年6月10日)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1152年 - 1190年、皇帝戴冠:1155年)。神聖ローマ歴代皇帝の中においては有能で、後世では英雄とまで呼ばれた。また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、赤髭王(バルバロッサ)と呼ばれた。
[編集] 生涯
1152年、叔父にあたるコンラート3世の指名で神聖ローマ皇帝に即位する。即位後は帝国の混乱の収拾するために、ドイツ諸侯に対しては特権を与え、帝国の宿敵であったヴェルフ家のハインリヒ獅子公とは和解して、これを収めることに成功した。1154年にイタリア遠征を行ない、翌1155年にローマ教皇から戴冠される。
しかし、その後はイタリア政策に力を注ぎ、そのために政策をめぐって教皇と1157年から対立、以後フリードリヒ1世は5回にわたるイタリア遠征を行なうこととなり、本国の統治に力を注げなくなる。1162年には自身に敵対するミラノに侵攻して同地を破壊、このため1165年に教皇から破門される。1168年から北イタリアの諸都市がフリードリヒ1世のイタリア政策に不満をもってロンバルディア同盟を結成すると、フリードリヒ1世はこれに危機感を覚えて1174年に再びイタリア遠征を実施するが、これには国内でもハインリヒ獅子公をはじめ遠征反対論が多く、1176年にはレニャーノの戦いで大敗するという有様であった。このため1183年に、フリードリヒ1世は講和を結ばねばならなくなり、イタリア政策は事実上失敗に終わったのである。
その後は国内政策に力を注ぎ、ポーランドの属国化やオーストリアの公国化、ボヘミア王国の成立、宿敵ハインリヒ獅子公の追放など、いずれも成功を収めている。また、シチリア王国と婚姻関係を結んで南イタリアにわずかに影響力を保持し、息子ハインリヒ6世のシチリア王国併合につなげている。
1189年、第3回十字軍の総司令として出征。翌年にイコニウムの戦いでアイユーブ朝軍を打ち破るという大戦果を収めた。しかし同年6月、小アジア南東部、キリキアのサレフ河にて沐浴中に溺死するという意外な最期を遂げた(これには諸説があり、フリードリヒ1世は卒中のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。
[編集] 伝説
フリードリヒ1世にまつわるものとして、テューリンゲン州、キフホイザー山の洞窟の中で部下とともに眠り続けているという伝説がある。これによれば、山の周囲をカラスが飛ぶのをやめたとき、ドイツに往時の繁栄をもたらすべく王は復活するのだという。1890年代、キフホイザー山の頂にある城跡にフリードリヒ1世とヴィルヘルム1世を記念するモニュメントが建設された。
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