フレデリック・ヴィンソン
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フレデリック・ムーア・ヴィンソン(Frederick Moore Vinson, 1890年1月22日 - 1953年9月8日)は、アメリカ合衆国の司法機関、立法機関、行政機関の3部門すべてに務めた経歴を持つアメリカ合衆国の政治家である。
1924年にケンタッキー州ルイザから下院議員に選出され立法府に務め、1945年にハリー・トルーマン大統領から財務長官に任命され行政府に務め、1946年に同じくハリー・トルーマン大統領から最高裁判所長官に任命され司法府に務めた。
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[編集] 生涯
[編集] 青年時代
フレデリック・ヴィンソンは、ケンタッキー州ローレンス郡の刑務所で誕生した。ヴィンソンの父親はローレンス郡の刑務官として勤務しており、ヴィンソンは幼い頃から刑務所内で父親の手伝いをしていた。1908年、ヴィンソンはケンタッキー師範学校を卒業し、センター大学に入学した。そしてヴィンソンはセンター大学を首席で卒業し、ルイザで弁護士となった。その後ヴィンソンはルイザの市検事に選出された。
ヴィンソンは第一次世界大戦期間中、陸軍に所属した。終戦後、ケンタッキー州第32司法管轄地区の州検事に選出された。
[編集] 下院議員時代
1924年、ウィリアム・フィールズのケンタッキー州知事就任に伴って空席となったケンタッキー州第9選挙区の下院議員補欠選挙に立候補し、当選を果たした。民主党から立候補したヴィンソンは1928年の選挙で敗北するまで2度の再選を果たした。その後1930年から1937年にかけても下院議員を務めた。
ヴィンソンが下院議員を務めている間、ヴィンソンはミズーリ州のアメリカ合衆国上院議員ハリー・トルーマンと知り合い、非常に親しい仲となった。1950年代初め、大統領に就任していたトルーマンが2期目の大統領選挙に出馬しないことを決めた際、トルーマンはヴィンソンに次期大統領選挙への出馬を要請した。しかしながらトルーマンの推薦をヴィンソンが断ったため、民主党は1952年の大統領選挙にアドレー・スティーブンソンを出馬させた。
[編集] 控訴裁判所裁判官時代
1937年11月26日、ヴィンソンはフランクリン・ルーズベルト大統領からコロンビア特別区巡回控訴裁判所の裁判官にされた。ヴィンソンはこれを受諾し、議会生活に幕を下ろした。1942年3月2日には最高裁判所長官ハーラン・ストーンから非常事態裁判所長官に指名され、1943年5月27日に辞任するまでこの職を務めた。
[編集] 財務長官時代
1943年5月27日、ヴィンソンは経済安定局長官の席に就くため、非常事態裁判所長官の座を退いた。その後ヴィンソンは1945年3月6日から4月3日まではアメリカ連邦借款庁長官を、1945年4月4日から7月22日までは戦時動員再転換局長官を務めた。1945年7月23日、ハリー・トルーマン大統領から財務長官に任命され、1946年6月23日までその役職に就いた。
財務長官としてのヴィンソンの任務は、第二次世界大戦によって揺らいだアメリカ経済を安定させることであり、アメリカ合衆国の財務状態を戦後の世界情勢に適応させることであった。終戦直前、ヴィンソンは大規模な戦時公債を募った。
第二次世界大戦が終結すると、ヴィンソンはアメリカ合衆国からの借款のうち最大の借款であった1940年のイギリス借款や、同盟国に行った経済支援や武器支援の清算について協議した。また民間投資を促進させるため、1945年の国税法で減税を行った。ヴィンソンは1944年のブレトンウッズ会議で合意された国際復興開発銀行と国際通貨基金の設立を指揮し、国際復興開発銀行と国際通貨基金の初代議長を務めた。1946年、ヴィンソンはハリー・S・トルーマン大統領によって最高裁判所長官に任命され、財務長官を辞任した。
[編集] 最高裁判所長官時代
1946年4月22日、最高裁判所長官ハーラン・ストーンが急死した。トルーマン大統領は空席となった最高裁判所長官の座に旧友のヴィンソンを指名し、ヴィンソンはこれを受諾した。そして1946年6月24日、ヴィンソンは最高裁判所長官の就任宣誓を行った。
ヴィンソンが最高裁判所長官に就任したとき、最高裁判所は大きく2つの派閥に分裂していた。一方は南部出身のヒューゴ・ブラック、もう一方はニューヨーク出身のロバート・ジャクソンであった。互いに会話をしたこともない裁判官もいたが、ヴィンソンは、少なくとも個人的なレベルでは、この亀裂を修復することに成功した。
ヴィンソンは最高裁判所長官として、77の判決の主文理由と、13の判決の反対意見を執筆した。ヴィンソンが執筆した反対意見の中で最も注目的なものは、1952年6月3日に下されたヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社対チャールズ・ソーヤー商務大臣の判決である。この裁判は鉄鋼業界のストライキを回避するためにトルーマン大統領が行使したタフト・ハートリー法の合憲性を問うものであった。最高裁判所はタフト・ハートリー法の行使は認めたが、同時にタフト・ハートリー法を違憲であると判断した。
[編集] 家族
1924年、ヴィンソンはケンタッキー州アシュランド出身のロバータ・ディクソンと結婚した。2人の間には、フレデリック・ヴィンソン・ジュニアとジェイムズ・ヴィンソンの2人の息子が誕生した。
1953年9月8日早朝、ヴィンソンは心臓発作により急死した。最高裁判所長官フレデリック・ヴィンソンの遺体は、ケンタッキー州ルイザのパインヒル墓地に埋葬された。
[編集] 外部リンク
- Secretaries of the Treasury - Frederick Moore Vinson - アメリカ合衆国財務省の公式サイト[1]内の、ヴィンソンルの紹介ページ(英語)
- Biographical Directory of the United States Congress - VINSON, Frederick Moore - アメリカ合衆国議会の人名辞典サイト[2]内の、ヴィンソンの項目(英語)
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