ヘンリー7世 (イングランド王)
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ヘンリー7世(Henry VII, 1457年1月28日 - 1509年4月21日)は、テューダー朝初代のイングランド王(在位:1485年8月22日 - 1509年4月21日)。リッチモンド伯エドムンド・テューダーとランカスター家系のマーガレット・ボーフォートの子。
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ヘンリー・テューダーはウェールズのペンブルク城で生まれた。幼年時代は、叔父ジャスパー・テューダーの保護を受け、ウェールズで暮らした。1468年にはヨーク派に捕らえられるが、ヘンリー6世復位の1470年に釈放された。
翌1471年にヘンリー6世と王太子エドワードが亡くなったため、ランカスター家の血を引く最後の男子となったことで、ヨーク派から命を狙われるようになった。そのため、叔父ジャスパーの手によりフランスに渡ってブルターニュに匿われた。
1485年8月22日のボズワースの戦いでヨーク朝のリチャード3世を破ってヘンリー7世として即位した。翌1486年にヨーク家のエリザベスと結婚し、長く対立してきたランカスター家とヨーク家を統一した。
即位後は、ヘンリーの王位継承権の疑惑(テューダー朝を参照)から王位を僭称するものが相次いだ。1486年にはランバート・シムネルがクラレンス公ジョージの長男ウォリック伯エドワードと名乗り、翌1487年にダブリンで国王エドワード6世を称した。これにリチャード3世の支持者が味方して王位獲得の軍を起こすが、ストーク・フィールドの戦いでヘンリーに敗れ、シムネルは捕らえられた。1492年から1499年にはパーキン・ウォーベックがエドワード4世の次男ヨーク公リチャードと名乗ってイングランドへ侵攻し、フランス王シャルル8世やスコットランド王ジェームズ4世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世などを巻き込んで国際的な問題となった。ヘンリー7世はいずれも王位僭称者たちを破り、王権を安定させた。
ヘンリー7世は、星室裁判所(Star Chamber、星法庁、星室庁とも訳される)による貴族勢力の弱体化、チェンバー制導入による財政安定化、政略結婚による同盟政策、貿易振興、新大陸経営などの政策を積極的に推進した。
持病の痛風と結核により、1509年4月21日、ヘンリー7世はリッチモンド宮殿において52歳でこの世を去った。
[編集] 子女
ヘンリー7世は王妃エリザベス・オブ・ヨークとの間に4男4女をもうけたとされる。
- アーサー(1486年9月20日 - 1502年4月2日) 王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)
- マーガレット(1489年11月28日 - 1541年10月18日) スコットランド王ジェームズ4世と結婚、のち第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラスと結婚。
- ヘンリー8世(1491年6月28日 - 1547年1月28日) イングランド王およびアイルランド王
- エリザベス(1492年7月2日 - 1495年9月14日) 夭逝
- メアリー(1496年3月18日 - 1533年6月25日) フランス王ルイ12世と結婚、のち初代サフォーク公チャールズ・ブランドンと結婚。
- エドマンド(1499年2月21日 - 1500年6月19日) 夭逝、サマセット公
- エドワード(不明)
- キャサリン(1503年2月2日) 夭逝
[編集] 関連項目
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