ホノリウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フラヴィウス・アウグストゥス・ホノリウス(Flavius Augustus Honorius 384年9月9日-423年8月15日)は、西ローマ帝国の初代皇帝。テオドシウス1世の次男(在位:395年-423年)。西ローマ帝国の実質的な滅亡の一因を作った暗君として知られる。
[編集] 生涯
2才でコンスルに就任、393年に「アウグストゥス」の称号を授かる。 395年、彼が10才の時に父テオドシウスが崩御、父の遺言で兄・アルカディウスは帝国領の東半分(東ローマ帝国)を、ホノリウス自身は帝国領の西半分(西ローマ帝国)をそれぞれ分割して統治した。結果としてこれがローマ帝国の東西分裂となる。
ホノリウスの治世は社会的に不安定な時代であった。まずアフリカでギルドの反乱が起こる。ゲルマン人がイタリア中を蹂躙する。そして属州ブリタニアで軍隊の司令官が勝手に皇帝「コンスイタンティヌス3世」を詐称して地方を制圧してしまうような時代で、そのため当初はメディオラヌム(現在のミラノ)に宮廷を置いたが、402年に西ゴート族がイタリアに侵入するとラヴェンナへ遷都し、以後そこに篭りっきりとなる。蛮族がイタリアを蹂躙する一方で彼のいるラヴェンナは軍により徹底的に防衛されていた。
また彼自身も暗愚な人物であったため、政務はヴァンダル族出身の将軍・スティリコが行なった。ホノリウスはスティリコの娘と結婚したが、408年にホノリウスは実権を取り戻すために、スティリコを陰謀罪で処刑してしまった。
これにより西ローマ帝国の勢力は衰退。ブリタニアを維持できずに放棄し、ガリアにはゲルマン人が侵入。そして410年、イタリアへ西ゴート王国のアラリック1世が侵攻してくる。スティリコのいない西ローマ軍には対抗できるような力は無く、ローマ市は西ゴート軍に占領されて略奪されてしまった。この時のホノリウスの反応には以下の説話がある。
- 当時ホノリウスは鶏を飼う事を趣味としており、その鶏の名前を「ローマ」と名付けていた。ローマ陥落の際にホノリウスは使者から「ローマが奪われた」という知らせを受けたが、彼は自分の鶏「ローマ」がまだここにいて生きているのにと不思議に思った。そしてその「ローマ」が鶏の名ではなく、首都ローマの事だと使者が説明して事態が納得できたと言う。
この説話は、しかしながら、エドワード・ギボンは信じられる話ではないとしている。
423年、39歳の誕生日より前に子供を残さずに死去。彼の代で既に西ローマ帝国は実質的にイタリアを支配するのが精一杯の状態となっていた。
[編集] 関連項目
西ローマ帝国テオドシウス王朝 | ||
---|---|---|
先代 |
次代 ウァレンティニアヌス3世 |