ホルシュタイン
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ホルシュタイン(英語:Holstein、低地ドイツ語(en:Low German):Holsteen、デンマーク語:Holsten、ラテン語及び古典的な英語: Holsatia)は、エルベ川とアイダー川(en:Eider River)の間、現在のドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の南部地域をいう。同州の州都キールはホルシュタインの代表的な都市でもある。またハンブルク市は、この地域のすぐ南にある。
その名前は、アングロサクソン語(古英語)のHolt-sǣtanすなわち「森の住人」と同義の低地ドイツ語の言葉に由来している。
[編集] 歴史
ホルシュタイン、つまりエルベ川の北に位置した古代ザクセンの一部は、800年ごろカール大帝によって征服された。ホルシュタインは、13世紀初頭にはデンマークによって占拠されはしたが、1111年から1474年まで神聖ローマ帝国の1州で、その後は1806年の帝国解体まで帝国直轄の公国だった。1460年以来ホルシュタインは、デンマークのシュレースヴィヒ公国(en:Schleswig)とともに、王としてではなく公爵としてその地を支配したデンマーク王によって相続された。2つの公国は、デンマーク王によって相続される中で、一部はデンマーク王家の支配下に、他はこの王家の分家たるホルシュタイン=ゴットルプ公爵家の下にそれぞれがさらに分割された。ホルシュタイン=ゴットルプ公は、大北方戦争の結果、1720年にシュレースヴィヒ内の領地をデンマーク王家に引き渡すことを強いられたが、公はキールに移り、1773年までホルシュタイン内の領地を保持した。しかしデーン人は、特にホルシュタイン=ゴットルプ公がピョートル3世として1762年にロシア皇帝になり、シュレースヴィヒ内の失われたゴットルプ領(en:Gottorp)を回復するため、デンマークの攻撃を計画し始めると、自らの領土を完全なものとすることを熱望した。ピョートルはその妻エカチェリーナ2世によってすぐに権力の座から引きおろされたが、デーン人はこの問題を自身の手で取り除くことを決意した。1773年に、ホルシュタイン全土を支配下に収めるため、彼らはオルデンブルク州(en:County of Oldenburg)をホルシュタイン内のゴットルプ領と交換した。
1815年から1864年まで、ホルシュタイン公国は、なおデンマークと同君連合(デンマーク王はホルシュタイン公でもある)であったが、ドイツ連邦の一部でもあった。1863年のデンマーク王フレゼリク7世の死の結果、シュレースヴィヒとホルシュタインの相続権が争われた。新王クリスチャン9世は、女系でもってデンマークの王位を主張した。王家の他の系統のあまり有名でない子孫、アウグステンボルク公(en:Duke of Augustenborg)がそれら2つの公国を要求すると、まもなくドイツ連邦は、プロイセンとオーストリアに率いられデンマークとの戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)に踏み切り、1864年にすばやくこれを打ち破って両公国を割譲させた。しかしながら、両公国は、結局アウグステンボルク公には与えられず、オーストリアがホルシュタインを占領・管理し、一方、プロイセンがシュレースヴィヒを同様にするという協定が、プロイセンとオーストリアの間で1865年に締結された。この協定は1866年の普墺戦争で終わりを迎え、プロイセンにシュレースヴィヒとホルシュタインの両方が組み入れられることになる。