マルセル・ブロイヤー
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マルセル・ブロイヤー(Marcel Lajos Breuer1902年5月21日-1981年7月1日)はモダニズムの建築家、家具デザイナー。モジュール構造と単一形態の重要性を提示したモダニズムの父のひとり。
1920年代、ブロイヤーはバウハウスで学び、後に同校の教官(マイスター)となった。彼は芸術とテクノロジーの融合を説き、やがて木工工房を任されるまでになった。後に、彼はベルリンで開業し、住宅や商業施設のデザインをした。
ブロイヤーの最も知られている作品は初めて曲げた金属パイプを使用した『ワシリー・チェア』であろう。この椅子は、1925年に自転車のハンドルに着想を得てワシリー・カンディンスキーの為にデザインした。自転車用の工具を使って簡単に組み立て・分解が可能で、大量生産にも向いていた。
1930年代に入り、ドイツ国内でナチスが台頭すると、ユダヤ人のブロイヤーはロンドンに移住した。ロンドンでは、Isokon社に雇われていた。当時、ブロイヤーは自分の長椅子をデザインする際にベニヤ板で金属のような曲面を構成することを試みている。
ブロイヤーは最終的にはアメリカに移住した。彼はハーバード大学の大学院で建築を教えた。生徒には、後にアメリカを代表する建築家となったフィリップ・ジョンソンやポール・ラドルフなどがいる。 同時期、ブロイヤーはバウハウス時代からの旧友でハーバード大での同僚のヴァルター・グロピウスと共にボストン周辺の幾つかの住宅のデザインを手懸けている。
1941年5月、ブロイヤーはグロピウスとの協力関係を解消し、自身の事務所をニューヨーク市に開いた。1945年の『Geller House I』はブロイヤーが“双眼鏡”に着想して玄関を中心に寝室と居間・食堂・キッチンを両翼に分けてデザインした“バタフライ”と呼ばれる特徴的な屋根を持つ最初の作品で、これらはモダニズム建築の代表的型式となった。1949年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の庭園に設けたデモンストレーション・ハウスに関するピーター・ブラックの批評は、建築業界に一石を投じた。
1953年、パリのユネスコ本部の設計依頼はブロイヤーにとって転換点となった(ヨーロッパへの帰還、大プロジェクトへの復帰だけでなく、この仕事で初めてコンクリートを使用した)。以後の彼は曲線美や彫刻的な表現を特徴とするブルータリズムの先駆者として知られるようになった。多くの建築家は「彼はコンクリートで“柔かさ”を表現した」と評した。
ブロイヤーは、しばしば旧パンナムビル(現メットライフビル)の設計者と間違われて非難されることがあった。パンナムビルを実際に設計したのはグロピウスである。 1969年、ブロイヤーはグランド・セントラル駅の上に『グランド・セントラル・タワー』と名付けた55階建て高層ビルの建設を提案したが、評論家のエイダ・ルイーズ・ハクスタブルはこれを「悪趣味な巨塔」と呼んで批判した。ブロイヤーの評価は下がったが、結果的にニューヨークを始めとする全米各地で歴史的建造物の価値を認める運動が起ったり、都市景観の保護を定めた法律が制定されることになった。
マルセル・ブロイヤーは1981年、ニューヨークで死去した。享年79。