ムンダ (護衛空母)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1944年3月29日 |
進水: | 1944年5月27日 |
就役: | 1944年7月8日 |
退役: | 1946年4月24日 |
その後: | スクラップとして売却 |
除籍: | 1958年9月1日 |
性能諸元 | |
排水量: | 7,800 トン |
全長: | 512.3 ft (156 m) |
全幅: | 108.1 ft (33 m) |
吃水: | 22.5 ft (6.9 m) |
機関: | 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力 |
最大速: | 19.3ノット |
航続距離: | |
兵員: | 士官、兵員860名 |
兵装: | 38口径5インチ砲1門、40mm機銃16基 |
艦載機: | 28機 |
ムンダ(USS Munda, ACV/CVE-104)は、アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級航空母艦の50番艦。
[編集] 艦歴
1944年3月29日にワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で起工する。当初はACV-104 (補助空母)として建造されたが、1943年7月15日に CVE-104 (護衛空母)へと艦種変更された。1943年9月23日にトノウェク・ベイ(Tonowek Bay)と命名されたが、1943年11月6日にムンダへ改名された。1944年5月27日にジェームズ・E・ダイアー夫人によって進水し、1944年7月8日に海軍に引き渡されL・A・ポープ艦長の指揮下就役した。
西海岸での整調後に太平洋艦隊の空母輸送部隊に配属されたムンダは1944年8月16日に単艦での処女航海に出航する。71機の航空機と202名の兵員を乗せ、9月1日にエスピリトゥサント島に到着する。続いてフィンシュハーフェンとマヌス島に向かい、その後カリフォルニア州アラメダに帰還した。二度目の輸送任務は12月5日に完了し、12月12日に3度目の輸送任務に就く。その後も輸送任務を継続し、1945年中旬まで三度の航海を行った。7月3日にエニウェトクで第30.8任務群に加わりパイロットを輸送し、第38任務部隊へ航空機を運搬した。
ムンダは7月20日に任務部隊に合流し、26日まで同地に留まった後補給のためグアムに向かう。同月末に出航し再び第38任務部隊8月3日合流、空母への補給を行い7日と11日にも同じ作業を行った。8月13日に艦隊を離れ、グアムへ向かう途中に日本の降伏を知る。第30.8任務群に再び加わり、日本占領の第一陣とともに最初の週を沖合で待機し、9月10日に東京湾に入る。
10月2日に東京を出港し、マジック・カーペット作戦に加わる。翌年にかけて帰還兵を輸送し、同任務が完了すると1946年1月18日にワシントン州ポート・アンジェルスで不活性化の準備を始める。ムンダは1943年9月13日に退役し太平洋予備役艦隊に加わり、タコマに停泊する。1955年6月12日に CVU-104 (雑役空母) に艦種変更され、1958年4月19日にブレマートンに回航される。1958年9月1日に除籍され、1960年6月7日にニューヨークのジェネラル・オーレ社に売却された。
ムンダは第二次世界大戦の戦功での1個の従軍星章を受章した。
[編集] 関連項目
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