ラ・ヴァルス
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ラ・ヴァルス(La Valse, Poème choréographique)は、モーリス・ラヴェルの作曲した管弦楽曲である。作曲者自身によるピアノ2台用の編曲や、他人の編曲によるピアノ独奏版も存在する。
ラヴェルの親友ミシア・セールに献呈されている。1920年12月12日にパリで初演されたが、当初意図していた舞踊音楽としての初演は、1929年5月23日にイダ・ルービンシュタインによるオペラ座での上演を待たざるを得なかった。このときの振付師はブロニスラヴァ・ニジンスカヤであった。
[編集] 曲の概要
「ラ・ヴァルス」とは、フランス語でワルツのことである。オーケストラのためにワルツを作曲するという発想は、すでに「高雅で感傷的な円舞曲」によって実現されていたものの、これは「ラ・ヴァルス」と違って元来(シューベルトに倣った連作ワルツの体裁で)ピアノ曲として完成されたものを、後に管絃楽曲として編曲し、さらにバレエ音楽「アデライードまたは花言葉」として転用されたという経過を辿っている。
一方の「ラ・ヴァルス」は、ヨハン・シュトラウスへのオマージュとして交響詩風のウィンナワルツを書き上げるという、1906年以来のプランに遡る。1914年には、交響詩「ウィーン」という題名が浮上しており、 1919年から舞踊詩「ラ・ヴァルス」として作曲され、1920年に脱稿した。
ラヴェルは初版に、おそらく交響詩「ウィーン」の着想の頃に遡る、次のような標題を寄せている。
- 渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である。
この文章が示唆するように、曲はまず低弦のトレモロによる混沌とした雰囲気に始まり、徐々にワルツのリズムとメロディが顔を出す。一旦賑やかにワルツとしての形を整えた後、ゆったりとした新たな主題が出て、いかにもワルツらしい雰囲気を積み重ねていく。
しかし「ラ・ヴァルス」は、ラヴェルが第一次世界大戦への従軍とその後のシェル・ショックを経験した後に完成させたため、19世紀のオーストリア文化への憧れはもはや表現されなかった。曲も展開が進むに連れて徐々にワルツらしいリズムが崩れ始め、テンポが乱れてくる。転調を繰り返し、リズムを破壊して進み、冒頭の主題が変形されて再現された後、最後の2小節で無理やり終止する。このようにダンスに熱狂する人々が描き出されながらも、表現には常に翳りが付きまとい、オーストリア・ハンガリー帝国の破局の予感と、その不安ゆえに、いよいよダンスにのめりこまずにいられない市民の姿が暗に示されている。
1855年のオーストリアといえば、フランツ・ヨゼフ1世の治世にあたり、まさに帝国の「終わりの始まり」の時期であった。終結部での無調的なパッセージは、帝国の崩壊が明示されているのだろう。曲全体に散見されるやや皮肉の交じった暗い調子は、ワルツというより一種の「死の踊り(ダンス・マカーブル)」というべきであり、このようなワルツの扱い方は、スケルツォ楽章におけるマーラーのレントラーの扱いにどことなく似ていることが指摘されている。