リトアニア大公国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リトアニア大公国(リトアニアたいこうこく、Lietuvos Didžioji Kunigaikštystė, 1246年? - 1430年?)は、リトアニアを支配した国家。1430年以降はポーランド王国との実質的な同君連合を組む。1569年のルブリン合同をもってリトアニア大公国はポーランド王国と一体となり消滅したが、連合国家名は17世紀、18世紀にも名目的に呼称され、区別された。
当時のリトアニアはドイツ騎士団による侵攻に悩まされていたが、ミンダウカスは諸部族をひとつにまとめ上げてリトアニアを統一し、1246年に初代かつ最後の王として即位した。
ミンダウカスの孫ゲディミナスの時代にもドイツ騎士団によるリトアニア侵攻は執拗に続いたが、ゲディミナスはポーランド王国と同盟を結ぶことでこれを撃退し、さらにウクライナ方面に進出して領土を拡大した。そして首都ヴィリニュスを建設してユダヤ人やキリスト教徒を保護するなどし、リトアニア大公国の全盛期を築き上げた。このため、ゲディミナスはリトアニアの英雄として讃えられている。
ゲディミナスの子アルギルダスの死後、大公の座をめぐって息子のヨガイラ(のちのヴワディスワフ2世)と叔父のケストゥティスとの間で争いが起こる。これにはヨガイラがケストゥティスを殺害することで勝利し、リトアニア大公として即位することとなった。
1386年、ヨガイラは時のポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、リトアニア大公とポーランド王を兼ねた。これをヤギェウォ朝と言う。しかし、ポーランドとリトアニアを同時に統治する事に失敗し、1401年にケストゥティスの遺児ヴィトフト(ヴィタウタス)にリトアニア大公の位を譲っている。こうして、リトアニア大公国とポーランド王国との国家連合が成立する。
その後、ポーランド・リトアニア連合として1410年にはタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、1413年にはポーランドと協定を結んで連合関係を強化するなどしたが、1430年にヴィトフトが死去すると、リトアニア大公国の領土はポーランド王国の支配下に置かれるようになった。
[編集] リトアニア大公
※ヨガイラからジグムント2世までのポーランド王も実質的にはリトアニア大公を兼ねた。