レスナーヤの戦い
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レスナーヤの戦い(ロシア語:Битва при Леснойビートヴァ・プリ・リスノーイ;スウェーデン語:Slaget vid Lesna;ベラルーシ語:Бітва пры Ляснойビートヴァ・プルィ・リャスノーイ;ウクライナ語:Битва під Лісноюブィートヴァ・ピド・リスノーユ)は、1700年から1721年にかけてロシアとスウェーデンを中心に行われた大北方戦争における戦闘のひとつ。現在のベラルーシ共和国の村落リャスナーヤ(ベラルーシ語:Ляснаяリャスナーヤ;ロシア語名:レスナーヤ;Леснаяリスナーヤ)近くで行われ、ロシア側が初めてスウェーデン側の主力を破った。
[編集] 概要
1708年9月14日、スウェーデン王カール12世はモスクワへの急速なる侵攻を断念せざるを得なくなり、ウクライナ深部への移動を余儀なくされた。この決断の理由は十分にあった。即ち、スウェーデン軍は糧食及び飼料の激しい欠乏を味わっていた。また、それらの蓄えの補給も必須となっていた。ウクライナには守備するロシアの強力な駐屯部隊はなく、従ってそこでは穏やかに休息を取ることも、また本国からの増援部隊を待つこともできると考えられた。増援部隊は、アーダム・ルードヴィヒ・レーヴェンハウプト伯爵が率いて来ることとなっていた。カールはまた、コサックの支持も計算に入れていた。ウクライナ・コサックのヘーチマンであるイヴァーン・マゼーパは、最大2万の兵力を以ってカールを支援することを約束していた。それ以外に、カールはクリミア・ハン国や親スウェーデン派ポーランドとのより緊密なる接触が調整されることも期待していた。
しかしながら、これらの期待はすべて裏切られる運命にあった。1708年9月28日、レスナーヤの近くで、総勢1万2千からなるモスクワ大公国のピョートル1世の遊撃隊が、1万6千からなるスウェーデンのレーヴェンハウプト将軍指揮下の兵団を打ち破ったのである。スウェーデン軍はこの戦闘において9千以上の兵力を死傷により失った。また、カールの軍隊のための3ヶ月分の備蓄、火砲類、弾薬とともに莫大な量の輜重が奪われた。
この戦いでは、特にミハイール・ミハーイロヴィチ・ゴリーツィンが頭角を現した。ゴリーツィンは、こののちロシア帝国の最有力貴族のひとりとなっていった。
のちに、ピョートルはこの勝利を「ポルタヴァの戦いの母」と名付けた。この戦いの結果、レスナーヤの戦いとポルタヴァの戦いの間の9ヶ月、カールの軍隊は弾薬や蓄えなしに留まり続け、徐々に弱体化されていったのである。