ロジェ・ミラ
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ロジェ・ミラ(Roger Milla、本名Albert Roger Miller、1952年5月20日 - )は、カメルーン・ヤウンデ出身の元同国代表サッカー選手(FW)。アフリカサッカーが注目され始めた頃の、偉大なるサッカー選手の一人として知られる。
幼少時は鉄道員である父に連れられ、頻繁に転居。13歳の時、カメルーンのドゥアラにあるクラブと契約し、プロサッカー選手としてスタートを踏んだ。18歳の時、別のドゥアラのクラブで初めてのリーグ制覇を成し遂げた。1976年、トネール・ヤウンデ(en:Tonnerre Yaoundé)に移籍したミラは、そこでアフリカゴールデンボール賞を獲得。
1977年、フランスのヴァランシエンヌFCに移籍したが、控え選手のまま2年間を過ごした。1979年にはモナコに移籍したが、ここでもベンチと故障者リスト入りの往復であった。翌年はバスティアへ移籍するも、目立った活躍を見せることはなかった。
1984年にサンテティエンヌへ移籍し、ようやくレギュラーの地位を獲得。その後、1986年から1989年までモンペリエでスター選手として活躍した後に引退、コーチとしてクラブに残った。
フランスでプレーしている間、1978年にはカメルーン代表に初めて選出され、1982年のスペインW杯に出場したが、初戦のペルー戦で素晴らしいゴールを決めたものの反則により惜しくも取り消され無得点の引分けに終わった。この時のカメルーンは3引分けの3位と1次リーグで敗退したものの健闘した。2年後の1984年にはロサンゼルスオリンピックに出場した(1勝2敗の3位で一次リーグ敗退)。1987年に代表チームから退き、その後インド洋のレユニオンに居を構え、引退生活を送るところだった。
しかし1990年、ミラはカメルーン大統領ポール・ビヤから電話で代表復帰の要請を受け、現役復帰を決断。「不屈のライオン」の一員としてイタリアへ向かい、イタリアW杯でのミラは、大会を盛り上げたスター選手の一人となった。
開幕戦である前回王者のアルゼンチン戦では2人の退場者を出しながらも1-0で勝利(ミラは得点無し)、2戦目のルーマニア戦では2得点を挙げて勝利(2-1)に貢献した。決勝ラウンド1回戦でもコロンビアから延長後半で2得点を挙げ、準々決勝進出を果たした。準々決勝ではイングランドに途中までリードしながら延長戦の末惜しくも敗れた(ミラは得点無し)が、「不屈のライオン」の躍進は世界に衝撃を与えた。
ミラはこの大会中4ゴールを挙げ、今日ではすっかりお馴染みとなったコーナーポストを囲んでの歓喜の踊りと共に、世界中のサッカーファンに鮮烈な印象を残した。今日のアフリカチームの躍進は周知のことだが、その嚆矢となったのは紛れもなくこの時の「不屈のライオン」であり、ミラであった。
ミラは4年後の1994年、再びアメリカW杯のピッチに立った。この時、ミラは既に42歳になっていた。ミラは高齢の為に前回大会に比べ出場時間が極端に減った。その為か、この大会でのカメルーン代表は一転していいところなく1分け2敗の成績に終わり一次リーグで姿を消した。(アフリカ代表チームにありがちなボーナスを巡っての対立や、ミラだけが特別視されることへの周りの選手の反感もあったと言われてはいる。)特に最終戦となったロシア戦ではオレグ・サレンコのワールドカップ記録となった1試合5得点を含む1-6で惨敗。しかし、この試合でカメルーン唯一のゴールを決めたのは、後半から投入された直後のミラだった。この時のミラは42歳1か月8日であり、ワールドカップにおける最年長ゴールとして名を刻んでいる。
現在は、カメルーンの特別親善大使を務めている。2004年には、FIFA 100(国際サッカー連盟の100周年記念として、ペレによって選ばれた125人の「最も偉大なサッカー選手」)の一人として選ばれた。
[編集] 所属クラブ
- レクトール・ドゥアラ(カメルーン)1965-1970
- レパード・ドゥアラ(カメルーン)1970-1972
- トネール・ヤウンデ(カメルーン)1972-1977
- ヴァランシエンヌFC(フランス)1978-1979
- ASモナコ(フランス)1979-1980
- SCバスティア(フランス)1980-1984
- ASサンテティエンヌ(フランス)1984-1986
- モンペリエHSC(フランス)1986-1989
- サンピエロワーゼ(レユニオン)1989-1990
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