一条房家
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一条 房家(いちじょう ふさいえ、文明7年(1475年) - 天文8年11月13日(1539年12月23日))は、戦国時代の公卿(土佐国の国司)。土佐一条氏の第2代当主。関白一条教房の次男。息子には土佐一条家を継いだ一条房冬や房家の叔父一条冬良の婿養子となって一条家を継いだ一条房通がいる。
[編集] 出自・事蹟
土佐一条氏は房家の父教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して在地領主化した公家大名であり、自身、正二位の官位にのぼった房家はその名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築いた。また、本拠地の中村に「小京都」と呼ばれるほどの街を建設し、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。中村市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる。
[編集] 長宗我部氏との関係
1508年に本山氏によって滅ぼされた長宗我部氏の遺児長宗我部国親を保護し、その再興を助けたことでも有名である。しかし、房家の死から30年後に弱体化した一条氏は長宗我部氏によって滅ぼされることとなった。長宗我部元親は房家の恩から一条氏と戦うと天罰がくだるとためらったのを、弟の吉良親貞が天罰なら自分が受けると言って説得し、その言葉の通りに親貞は一条氏の滅亡後まもなく30代の若さで死んだのだという逸話が知られている。