一関藩
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一関藩(いちのせきはん)は、江戸時代の藩の一つ。陸奥国一関(現在の岩手県一関市)に陣屋を置いた。この地に陣屋を置いた大名家は、いずれも仙台藩伊達氏の分家に当たる一関伊達家と田村家の二家である。一関藩は、仙台藩領内に浮かぶ島のような形の藩であった。
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[編集] 藩史
万治3年(1660年)に仙台藩主伊達綱宗の叔父伊達兵部大輔宗勝が3万石の分知を受けてこの地に陣屋を置いたことに始まる。宗勝は綱宗の隠居により2歳で藩主となった綱村の後見役として仙台藩政を担っていたが、寛文11年(1671年)の伊達騒動により失脚した。これにより一関藩は改易され、その領地は仙台藩に返還された。
その後、天和2年(1682年)に陸奥岩沼より田村因幡守建顕が移り、再び大名領を形成した。田村家は、仙台藩二代藩主伊達忠宗がその子宗良に母・愛姫の実家である田村氏を再興させたのに始まる。宗良は、伊達宗勝と共に伊達綱村の後見役となり陸奥岩沼にて3万石の大名に列した。建顕は宗良の子であり、外様ながら奥詰として将軍徳川綱吉の側近として仕えた。また、松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野内匠頭長矩を預かり、邸内で切腹させたことでも知られる。
[編集] 歴代藩主
[編集] 一関伊達(いちのせきだて)家
- 伊達宗勝(だて むねかつ)〔従五位下、兵部少輔〕
[編集] 田村(たむら)家
- 建顕(たけあき)〔従五位下、右京大夫〕
- 誠顕(のぶあき)〔従五位下、下総守〕
- 村顕(むらあき)〔従五位下、隠岐守〕
- 村隆(むらたか)〔従五位下、下総守〕
- 村資(むらすけ)〔従五位下、左京大夫〕
- 宗顕(むねあき)〔従五位下、右京大夫〕
- 邦顕(くにあき)〔従五位下、左京大夫〕
- 邦行(くにゆき)〔従五位下、右京大夫〕
- 通顕(ゆきあき)〔字:磐二郎〕
- 邦栄(くによし)〔従五位下、右京大夫〕
- 崇顕(たかあき)〔従五位下、右京大夫〕