三輪高市麻呂
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三輪高市麻呂(みわのたけちまろ、生年不明 - 慶雲3年(706年2月6日)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは同じ。氏は大三輪、大神ともいい、現代仮名遣いで「おおみわ」、旧仮名遣いで「おほみわ」となる。姓(カバネ)は君、後に朝臣。672年の壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)の側について戦い、箸陵と中つ道の戦いで活躍した。692年には農事に行幸しようとする持統天皇を自らの官職をかけて諫めた。文武天皇の代に長門守、左京大夫になった。贈従三位。
三輪氏は奈良盆地を本拠とした古くからの氏族である。高市麻呂の父は利金で、弟に安麻呂がいる。
672年の壬申の乱の勃発時、高市麻呂は朝廷に官職を得ず、倭(大和国)で形勢を観望していたらしい。大伴吹負が6月29日に倭京を襲ってそこにあった大友皇子側の軍の指揮権を奪取すると、三輪君高市麻呂は吹負の下に入って戦うことにした。7月、犬養五十君が率いる敵との会戦で、高市麻呂は置始莬とともに右翼の部隊を率いた。彼らはまず箸陵で前面の敵を破り、中軍のいる中つ道に回りこんだ。そこで吹負の本営に迫っていた廬井鯨の軍の背後を断ち、これを敗走に追い込んだ。
天武天皇13年(684年)11月1日に、大三輪君ら52氏は朝臣の姓を授かった。
朱鳥元年(686年)9月28日、天武天皇の葬儀に際し、直大肆の大三輪朝臣高市麻呂は、理官の事を誅した。
持統天皇6年(692年)2月19日に、中納言直大弐の三輪朝臣高市麻呂は、上表して諫言し、天皇が伊勢に行幸して農事を妨ることをやめるよう求めた。3月3日に行幸の留守官が任命されると、中納言大三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱いで天皇に差し出し、「農作の節に車駕を動かすべきではない」と重ねて諫めた。天皇は聞き入れず、6日に発って伊勢に行き、20日に帰ったが、かわりに随行した人と労役した人のその年の調役を免じた。
これより後、『日本書紀』中に高市麻呂への言及はない。『続日本紀』の702年まで何をしていたか不明である。ただ、両書ともこの時期の中級官人の動向を漏らさず伝えるようには編纂されていないので、高市麻呂が官を辞したのか留まったのかはわからない。
大宝2年(702年)1月17日、従四位上の大神朝臣高市麻呂は長門守になった。大宝3年(703年)6月5日に左京大夫になった。