大和の古道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大和の古道(やまとのこどう)とは、上ッ道(かみつみち)、中ッ道(なかつみち)、下ッ道(しもつみち)の三道が奈良盆地の中央より東を南北に平行して走る縦貫道のことである。
目次 |
[編集] 三道の目的
三道はほぼ4里(約2120m)の等間隔をなしており、東から順に上ッ道、中ッ道、下ッ道と平行に並んでいる。現在でも形跡が残っている箇所も多く存在する。
三道は、何時敷設されたか。その目的は、よく分かっていない。七世紀に飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われた。とりわけ斉明朝には、巨大な建築物や山をも取り込んで石造の巨大施設が作られており、その材料の運搬のための道路であるとも考えられる。また、壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないか、とも推測される。
[編集] 下ッ道
七世紀中頃に、磐余からの阿部山田道と飛鳥盆地を南北に走る軽の路が交わっていたのが、奈良盆地を南北に走る大道、下ッ道として整備された。その下ッ道は、藤原京の西京極に当たり、奈良盆地の中央を走り、のち平城京の朱雀大路となる。橿原市から天理市にかけては、現在の国道24号線とだいたい合致する。
北は、那羅山(ならやま)の平坂(ならさか)を越えて山背道になり、宇治・山科から相坂(おうさか)を経て近江に出、北陸・東山・東海の三道に分かれる。南は、軽(かる、橿原市大軽町)の丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)までが直線道で、檜隈(ひのくま)からは西南に向かう巨勢道となり、宇智(うち)を経て紀和国境の真土山(まつちやま)を越えると紀ノ川沿いの木道(きのみち)となり、紀水門(きのみなと)に達する。この港は、神武東征説話のなかで兄の高瀬命が負傷したので南の方へ迂回した時の話として『古事記』に「紀国の男(を)の水門(みなと)に至りて詔りたまひしく、『賤しき奴が手を負ひてや死なむ』と男建(をたけ)びして崩りましき。故に、その水門を号して男の水門と謂ふ」とあって、名が付いた由来が書かれている。今は、「雄湊(おのみなと)」と書き、和歌山城の西側辺を謂う。
[編集] 中ッ道
中ッ道は、下ッ道の東、約2.1キロの所を平行して走り、南は藤原京の東京極をなし、北ではのちの平城京の東京極となった。橿原市の天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る直線道である。更に南は香具山を迂回し橘寺へ至るため、近世は橘街道と呼ばれた。更に南下すれば芋峠を経て吉野に至る。平安時代には吉野詣で賑わい、御堂関白記には藤原道長もこの道を経て吉野へ向かったと記されている。他の道に比べれば形跡はあまりはっきりと残っておらず、途切れがちな印象である。
[編集] 上ッ道
上ッ道は桜井市から奈良盆地東端の山沿いを北上して、天理市を経て奈良市東部に至る。南は桜井市仁王堂で横大路と交わり、更にその先は山田道を経て飛鳥へと通じている。中ッ道、下ッ道と同様にほぼ等間隔で平行するが、櫟井(いちい、天理市櫟本町)付近から北は、東の山系の山麓部となるため、直線道路の痕跡は残っていない。箸墓付近は壬申の乱の古戦場となった。平安時代には初瀬詣で賑わい、近世では上街道と呼ばれた。桜井市から天理市南部にかけては比較的よく形跡が残っている。
[編集] 設定年代
『日本書紀』によれば、壬申の乱の奈良盆地での戦闘記事には、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前には完成していたことが知られる。
[編集] 山の辺の道
奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部に若草山に並んでいる春日山のふもとまで、盆地の東端を山々の裾を縫うように通っているのが、山の辺の道(やまのべのみち)である。
『古事記』には、「山の辺の道の勾(まがり)の岡の上(ほとり)に崇神天皇の陵が、「山の辺の道の上」に景行天皇陵があると記している。
このように両天皇の墓が「山の辺の道」の岡にあると『古事記』に記されているところから8世紀の初めにはこの道が出来ており、7世紀の末の藤原京時代にもできあがっていたのではないかと推測できる。