中島久万吉
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中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は政治家、実業家、男爵。古河財閥、城西大学、古河電気工業や横浜ゴムを設立。高知県生まれ。父は男爵で衆議院議長や駐イタリア大使等を歴任した中島信行。妻八千子は子爵・岩倉具経の娘。1934年(昭和9年)、いわゆる「足利尊氏論」による混乱を鎮めるため、斎藤実内閣の商工大臣を辞任した。また同年、帝人事件に連座して起訴されたが、後に無罪が確定した(帝人事件では被告人全員が無罪となったため、事件そのものが捏造と解されている。)。1960年(昭和35年)、死亡叙勲により勲一等旭日大綬章。
[編集] 足利尊氏論
1921年(大正10年)、中島は、清見寺(静岡県静岡市清水区)にある足利尊氏自作の木造を拝観し、その感想文を俳句同人雑誌「倦鳥」に投稿した。当時、皇国史観に基づき、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は、謀反人と断定されていたが、中島は尊氏と足利時代(室町時代)を再評価すべき旨、その感想文に記していた。
その記事が掲載されてから13年後の1934年(昭和9年)、中島の感想文が雑誌「現代」2月号に転載される。同年2月3日の衆議院予算総会において、栗原彦三郎・衆議院議員(野党・国民同盟所属)が、この転載記事を利用して、逆賊たる尊氏を評価するような者が大臣の職にあることは「日本の教育行政にとって望ましくない」と政府の教育行政を批判した。この場は、中島が転載を知らなかったと釈明し、陳謝して収まった。
しかし、軍部出身議員や右派議員を多く擁していた貴族院において、尊氏論は再燃する。これら、軍部出身議員や右派議員は、斎藤内閣の軍縮姿勢と中島が主導した政友会・民政党の連携による軍部抑制策に不満を持っており、政府攻撃の隙を窺っていたからである。尊氏論は、その格好の攻撃材料となった。
中島攻撃を主導したのは、菊池武夫・貴族院議員(予備役陸軍中将、男爵)である。菊池は、逆賊尊氏を礼賛することは補弼にあたる大臣の任に堪えないとして、斎藤首相に「しかるべき措置」を取るべきと、中島の商工大臣罷免を迫った。斎藤首相は、すでに中島の陳謝により決着済みであり、議論は場違いであることを指摘した。この答弁に不満を述べた三室戸敬光・議員(子爵)は、さらに中島の爵位辞退をも要求し、斎藤の政治責任を追及した。
議会の内外でも右翼の執拗な攻撃が続き、宮内省にも批判の投書が殺到したため、中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった(爵位は辞退せず。)。この足利尊氏論に関わる一連の顛末は、政治に対する軍部の介入と右翼の台頭に勢いを与え、翌年の天皇機関説事件の要因ともなる。
[編集] 略歴
- 1873年 横浜に生まれる
- 耕余義塾を経て、明治学院中退
- 明治30年 高等商業学校(現・一橋大学)卒業、東京証券取引所勤務
- 明治32年 桂太郎首相秘書官
- 明治39年 西園寺公望首相秘書官
- 明治40年 古河鉱業入社
- 大正7年 城西学園創立(現・城西大学)
- 大正9年 古河電気工業、横浜護謨、富士電機等古河コンツェルンを創立
- 昭和6年 日本工業倶楽部創立、同専務理事
- 昭和7年 商工大臣(斎藤実内閣)
- 昭和9年 足利尊氏論で商工大臣辞任
- 昭和9年 帝人事件にて起訴、収監
- 昭和12年 同無罪判決
- 昭和25年 日本貿易協会会長
- 昭和30年 日本文化放送社長
- 営団地下鉄社長
- 昭和35年 葉山にて死去。
[編集] 著書
- 『政界財界五十年』 ISBN 4-944069-31-6 C0234 発行所 まつ出版
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