中川久貴
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中川 久貴(なかがわ ひさたか)は、豊後岡藩の第10代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 天明7年4月2日(1787年5月18日) | |||
死没 | 文政7年10月20日(1824年12月10日) | |||
別名 | 三千蔵(幼名) | |||
官位 | 従五位下、修理大夫 | |||
戒名 | 春耀院 | |||
墓所 | 大分県竹田市城北町の碧雲寺 | |||
藩 | 豊後岡藩主 | |||
氏族 | 柳沢氏→中川氏 | |||
父母 | 父:柳沢保光、養父:中川久持 | |||
兄弟 | 柳沢保民、柳沢保泰、中川久貴、 柳生俊豊、柳沢里顕 |
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妻 | 正室:松平信邦の娘で松平信明の養女・満 | |||
子 | 中川久利、中川久祐、中川栄道、 娘(中川久教室)、娘(岡部長和室) 忠之助、孝之助、養子:中川久教 |
天明7年(1787年)4月2日、大和郡山藩主・柳沢保光の五男として江戸で生まれる。寛政10年(1798年)に第9代藩主・中川久持が死去したため、その養子として後を継いで藩主となった。
文化元年(1804年)に豊後一国の地誌である豊後国誌を編纂して幕府に献納し、岡藩の学問水準の高さを知らしめている。文化4年(1807年)からは横山甚助による藩財政再建を中心とした「新法改革」が実施されたが、専売制や領民に対する重税のために反感を買い、文化8年(1811年)には岡藩において大規模な一揆が発生する。しかもこの一揆は臼杵藩や府内藩にも飛び火した。このため、久貴は農民の要求を受け入れ、横山を罷免することで文化9年(1812年)に一揆を鎮めている。
久貴には実子がいたが、正室の満に強要されて譜代大名の名門である井伊家から中川久教を養子として迎えて、文化12年(1815年)6月に家督を譲って隠居した。
文政7年(1824年)10月20日に死去。享年38。
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