中谷明彦
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中谷 明彦(なかや あきひこ、1957年11月3日 - )は、レーシングドライバーでモータージャーナリスト。武蔵工業大学工学部機械工学科卒業。
レーシングドライバーの中でも特に理論派として知られ、自らが主催する「中谷塾」ではドライビングテクニックを座学中心に学ぶという従来のレーシングスクール等と一線を画すカリキュラムにより、佐藤琢磨を始めとする多くのドライバーを育てている。
[編集] 略歴
大学在学中からFJ1600を始めとする多くのレースに参戦する一方で、大学卒業後は自動車専門誌の編集部員を経て1985年にレーシングドライバーとして独立。1987年には全日本F3選手権でシリーズ5位、翌1988年には同じく全日本F3でシリーズチャンピオンに輝く。1989年には全日本F3000選手権にステップアップし、1991年にはオートポリスで初優勝。
一方ジャーナリストとしても、1989年より日本カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員に選ばれるなど、特にスポーツカーの新車インプレッションなどを中心に活躍した。
1992年にはF1のブラバムとレギュラードライバーとしての契約を結ぶが、国際自動車連盟(FIA)が中谷に対しスーパーライセンスの発給を認めなかったため、やむなくF1参戦を断念する一幕もあった。
その後はレーシングドライバーとして、スーパー耐久などのツーリングカーレースを中心に活動を続けている。
1997年には「中谷塾」を発足させ、以後若手ドライバーの育成に積極的に取り組んでいる。