佐藤琢磨
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
車番 | 22 |
所属チーム | スーパーアグリ |
年 | 2002 - |
過去の所属チーム | ジョーダン, B・A・R |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 40 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 2002年オーストラリアGP |
初勝利 | - |
2006年順位 | 20位 (0ポイント) |
(記録は2006年全レース終了時) | |
佐藤 琢磨(さとう たくま、1977年1月28日 - ) は、東京都新宿区生まれのF1ドライバー。身長164cm、体重59kg。20歳からレーシングカートを始め、僅か5年でF1のシートを獲得した。「琢磨」「琢磨君」と下の名前で呼ばれる事が多い。また、「たっくん」「琢ちゃん」と呼ぶ者もいる。英語圏では"Taku"。血液型はRH+ A型。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] デビュー
佐藤が競技を始めたのは昨今のF1ドライバーとしては遅く、20歳まではモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、自転車競技に身を投じていた。インターハイ制覇、大学選手権優勝などの記録を残している。サッカー部にも所属していた。
1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。早稲田大学を休学してまずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で、選抜方法を変えさせてまでして(当初予定に無かった面接試験を行わせた)競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。SRS-F入学直後からスクール生はもちろんのこと、時には講師陣さえ上回る速さを披露し、1997年首席で卒業。
[編集] 全日本F3選手権
1998年には名門チームの無限×童夢プロジェクトより全日本F3選手権のデビューを決めたが、免停中に免許取り消しとなる交通違反を犯し国内レースに出走できなくなった事もあり、F1ドライバーとなるためモータースポーツの本場・ヨーロッパのレースに参戦すべくシーズン半ばに渡英した。
[編集] イギリスF3選手権
イギリスでは、F1関係者も注目するイギリスF3で失敗すれば二度と取り返すことができないと考え、まずはF3より格下のジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ヴォクスホールJr.にダイヤモンド・レーシングより参戦して活躍を示し、その後に満を持してカーリン・モータースポーツより2000年と2001年にイギリスF3選手権にフル参戦。2001年には日本人初のイギリスF3チャンピオンとなり、国際F3レース(マールボロマスターズ、マカオGP)も制して名実共にF3ドライバーとして世界の頂点を極めた。
[編集] F1
[編集] ジョーダン
2001年10月に、ジョーダンのドライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイム参戦F1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われた。しかし、資金不足に悩むジョーダンチームではシーズン中のテストもままならず、加えて不運なクラッシュもあり、ポイント獲得は日本GPでの5位入賞のみであった。特に開幕戦、メルボルンで行われたオーストラリアGPでは、フリー走行中のクラッシュに加え、予選中もマシントラブルや天候悪化などに見舞われ、当時採用されていた107%ルールに引っかかり、不名誉な予選落ちを記録した(しかしフリー走行のタイムを基に決勝出場が認められた)。チームメイトの中堅ドライバーであったジャンカルロ・フィジケラにパフォーマンスで劣っていた事も事実であった。翌年はホンダがエンジン供給をB・A・Rのみに絞ることが決定された為、エンジン供給を当てにして琢磨を雇っていたジョーダンにしてみれば、琢磨をドライバーにしておく理由が無くなった為にチームを放出されることになった。
[編集] B・A・R
2002年シーズン終了後、チームの将来性に賭けて2003年シーズンは、2004年以降のレギュラー・ドライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テスト・ドライバーとしての契約を結びB・A・Rに移籍した。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になったことから当時レギュラー・ドライバーであるジャック・ヴィルヌーヴはモチベーションを失って急遽参戦を取り止めた為、代役として出場。レースでは途中ミハエル・シューマッハと競り合う場面など見せ場を作り、また6位入賞を果たした事によりコンストラクターランキングで対ザウバー逆転に貢献する大金星を挙げた。
2004年はB・A・Rのレギュラードライバーに昇格。アメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュ、ヨーロッパGPでの日本人初のフロントロー獲得と同じく日本人初のラップリーダーを記録するなど、日本人最高記録を更新し続けた。しかしチームメイトのジェンソン・バトンと比較すると、やはりパフォーマンスは圧倒的に劣っていた。また、現在日本人ドライバーの中で最も生涯通算ポイントを稼いだドライバーであり、2007年現在も更新中である。しかし2003年以降ポイント制度が改正され、7位と8位にもポイントが与えられるようになり2位以下に与えられるポイントが大幅に増えた事を考慮する必要がある。そのため2003年以降の制度でポイントの比較を行った場合、中嶋悟は52ポイントを獲得している事になり、佐藤は43ポイントとなる(ちなみに2002年以前の制度でポイントの比較をすると、中嶋の16ポイントに対し佐藤は20ポイントとなる)。
2005年には、佐藤とB・A・R、アサヒ飲料の共同開発したスポーツドリンク「SUPER H2O」が発売された。 また、この年にイギリスからモナコに移住。
シーズンに入ってからは、サンマリノGPでのレギュレーション違反(重量不足)による5位(ジェンソン・バトンは3位)の取消し、更にスペインGP、モナコGPの2レースの出場停止処分が下されるなど序盤戦で跌きを見せたこともあり、リズムを崩すような形で前年とは打って変わった不振で、ハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、またもやバトンから大きく離されることとなった。ベルギーGPではブレーキングミスでミハエル・シューマッハに衝突してしまい、シューマッハに頭を叩かれてしまった。佐藤の母国である日本GPでのヤルノ・トゥルーリに対する衝突では、決勝結果から除外されただけでなく、トヨタチームから公式リリースの中で非難されるなど、ドライバーとしての資質を疑われる事が多かった。 そのためミハエル・シューマッハやヤルノ・トゥルーリの他にも、かつての同僚であったジャック・ヴィルヌーヴやルーベンス・バリチェロ、ニック・ハイドフェルドなども佐藤に対して「危険なドライバー」、「走路上の危険物」と評された。
バトンを巡ってウィリアムズとの間での移籍問題が前年より未解決なままであったB・A・Rであったが、9月18日にバトンは、当期でBMWとのエンジンサプライヤー契約が終了することが決定された翌期のウィリアムズでは戦闘力が落ちると判断し、ウイリアムズとの契約解除を切望。これに成功しB・A・Rとの契約を更新することとなった(ウィリアムズに支払うべき違約金を「将来の活躍で返す」ということでB・A・Rに立て替え払いして貰ったのだと言われている[要出典])。B・A・Rは既にフェラーリのルーベンス・バリチェロとの契約を完了していたことから、佐藤琢磨は2006年シーズンのB・A・Rでのレギュラードライバーの座を失うことになった。チーム(特にホンダ)からはサードドライバーとして留まることを提示されるも、あくまでレギュラードライバーに拘るとして固辞。その結果チームを去ることになった。
[編集] スーパーアグリ
[編集] 2006年
B・A・Rを出たことで去就が注目され、一説には以前に所属していたジョーダンの後継チームであり、トヨタエンジンを搭載するミッドランドなどへ移籍するのではという憶測も流れたが、2006年シーズンは鈴木亜久里による新規参戦チームのスーパーアグリF1チームから参戦することとなった。
新規参入チームの上、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治とともに最下位を走ることが殆どだった。ニューマシンの「SA06」が登場してからもマシンの熟成が進むまでMF1レーシング(2006年Rd.16 中国GP以降はスパイカーMF1にチーム名称変更)と最下位争いを繰り広げるのが関の山であったが、鈴鹿・日本GPでは、MF1の前でチェッカーを受け、さらに、最終戦ブラジルGPでは、過去最高位の10位という結果を出したと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たし、着実にマシン戦闘力を備えてきている事を示した。
[編集] 2007年
2007年シーズンも同チームからエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。SA07の戦闘力はSA06とは比較にならない程高く、オーストラリアGPでは予選10位を記録。
[編集] 家族
2005年7月31日に自身の公式サイトで、長年に渡って彼を支えてきた「パートナー」である女性(のちに入籍)との間に子供ができる事を報告。その後12月23日に男児が誕生し、父親になった。現在はモナコに在住する。
[編集] 年譜
- 1977年1月28日 - 東京都新宿区戸山に生まれる。弁護士の父・和利と舞台女優である母・昭子の長男。
- 1987年 - 鈴鹿でF1日本GPを観戦し、アイルトン・セナに感激。モータースポーツに憧れを持つ。
- 1989年4月 - 町田市立町田第二中学校に入学。陸上競技部に所属。
- 1992年4月 - 和光高等学校に入学。
- 1992年初春 - 自転車競技を開始。地元のサイクルスポーツ店「たかだフレンド」のクラブに参加する。
- 1993年8月 - 鈴鹿ロードで自転車レースデビュー。
- 1994年3月 - 高校に自転車競技部がなかった為、担任を顧問に独力で部を立ち上げる(部員は佐藤本人だけ、後に廃部)。
- 1994年8月10日 - 第45回インターハイの自転車競技ポイントレースで優勝。
- 1995年4月 - 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に特別選抜枠で推薦入学。自転車部に所属。
- 1995年9月 - 全日本大学対抗選手権の自転車競技で2位。
- 1996年4月 - 早稲田大学人間科学部を休学。
- 1996年6月 - 第37回全日本学生選手権の自転車競技男子4km速度競走で優勝。
- 1996年初夏 - アルデックス・ジャパンでレーシング・カートを開始。
- 1997年 - 鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)に入学。
- 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西でシリーズ1位、カート地方選手権FA-2関東・東でシリーズ3位。日本カートチャンピオンに。
- 1997年10月 - 中谷明彦氏主宰の中谷塾(ドライビング理論アカデミー)を受講、首席卒業。
- 1997年12月23日 - SRS-Fを首席で卒業。全日本F3選手権参戦のスカラシップを獲得。
- 1998年3月 - 無限×童夢チームから全日本F3選手権に参戦。
- 1998年7月 - 早稲田大学人間科学部を退学し渡英。
- 1998年7月 - イギリスのフォーミュラ・ヴォクスホールJr.に参戦。
- 1998年10月 - イギリスのフォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズに参戦。シリーズ3位。
- 1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップに参戦。イギリス選手権で2位。
- 1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズに参戦。シリーズ6位。
- 1999年3月 - most improved driver of the yearを受賞。
- 1999年7月 - ダイヤモンド・レーシングからイギリスF3選手権ナショナルクラスに参戦。6戦中3勝を挙げる。
- 1999年11月20日 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝。
- 2000年3月 - カーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。当時日本人最多の4勝、シリーズ3位。
- 2000年3月 - フランスF3選手権にスポット参戦し、優勝。
- 2000年12月 - ジョーダン・ホンダでF1初ドライブ。
- 2001年1月 - B・A・Rホンダのテスト・ドライバーに就任。
- 2001年3月 - 前年に引き続きカーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。12勝で日本人初のイギリスF3チャンピオンに輝く。
- 2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジで優勝。
- 2001年8月 - マールボロマスターズF3で優勝。
- 2001年10月 - 2002年ジョーダン・ホンダのF1ドライバーに
- 2001年11月18日 - マカオGP・F3レースで日本人として初の優勝。
- 2002年3月 - ジョーダン・ホンダからF1世界選手権に参戦。シリーズ15位。
- 2002年10月13日 - 日本GPにてF1初入賞(5位)。
- 2003年1月 - 2003年B・A・Rホンダのサード・ドライバーに就任。
- 2003年10月12日 - ジャック・ヴィルヌーヴのチーム離脱を受け、F1日本GPにスポット参戦し6位入賞。シリーズ18位。
- 2004年3月 - B・A・RホンダからF1世界選手権にフル参戦。
- 2004年4月3日 - バーレーンGPで1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ(5位)を記録。
- 2004年5月8日 - スペインGPで予選日本人最高位を更新(3位)。
- 2004年5月29日 - ヨーロッパGPで予選日本人最高位を更新(2位)し、日本人初のフロントロー獲得。翌日日本人初のラップリーダーも記録した。
- 2004年6月20日 - アメリカGPで日本人最高位タイ(3位)。F1の表彰台に上った日本人ドライバーは、1990年日本GPで鈴木亜久里が3位に入って以来、2人目。
- 2005年3月 - 前年に引き続きB・A・RホンダからF1フル参戦。
- 2005年7月31日 - 同年12月中旬に第一子誕生の予定を発表(この後、入籍を済ませる)
- 2005年9月20日 - 2006年のB・A・Rホンダのドライバー体制が、ジェンソン・バトン、ルーベンス・バリチェロの2人となることが正式に決定。これを受けた日本GP前の記者会見で、琢磨はホンダが技術支援して2006年に新規参入するチームからオファーを受けていることが明らかになった。その後そのチームは、鈴木亜久里氏が代表を務めるスーパーアグリF1チームであることが判明した。
- 2006年2月15日 - スーパーアグリF1チームへ移籍することが発表された。
[編集] 自転車競技成績
[編集] 戦績
- 1994年5月 - 全国高等学校総合体育大会自転車トラック競技第一次大会・第二次大会 ポイントレースで総合優勝
- 1994年8月 - 第45回全国高等学校対抗自転車競技選手大会(インターハイ) ポイントレースで優勝
- 1995年9月 - 全日本大学対抗選手権 2位
- 1995年11月 - 国民体育大会 6位
- 1996年6月 - 第37回全日本学生選手権 男子4km速度競走 優勝
[編集] 記録
- 男子4km速度競争 - 5分2秒30(1995年7月7日・石川県内灘町)
- 男子1Km速度競争 - 1分9秒298(1995年9月1日・青森県八戸)
- 男子フライング200m - 11秒442(1996年9月25日・静岡県修善寺)
[編集] 自動車レース成績
[編集] F1デビュー以前
- 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西 シリーズ1位
- 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・東 シリーズ3位
- 1998年 - 全日本F3選手権にスポット参戦 (チーム:童夢) (マシン:ダラーラF398無限)
- Rd.1 鈴鹿 19位 /予選6位
- Rd.2 筑波 欠場 /予選15位
- 1998年 - フォーミュラ・ヴォクスホールJr.(イギリス)
- 1998年 - フォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズ 3位(チーム:ダイヤモンド・レーシング)
- 1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップ シリーズ2位
- Rd.1 (ドニントンパーク)1位 /予選2位
- 1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズ 6位
- 1999年 - イギリスF3スカラシップ参戦 (チーム:カーリン・モータースポーツ)
- 1999年7月 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) 3勝
- 1999年11月 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝
- 2000年 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) シリーズ3位 (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
- Rd.1 スラクストン リタイア /予選7位
- Rd.2 クロフト 5位 /予選3位
- Rd.3 オウルントンパーク リタイア /予選11位
- Rd.4(R1) ドニントンパーク リタイア /予選1位
- Rd.4(R2) ドニントンパーク 9位 /予選25位
- Rd.5 シルヴァーストーン 1位 /予選1位
- Rd.6 ブランズハッチ 2位 /予選4位
- Rd.7(R1) ドニントンパーク 3位 /予選7位
- Rd.7(R2) ドニントンパーク 9位 /予選5位
- Rd.8 クロフト 1位 /予選1位
- Rd.9 シルヴァーストーン 1位 /予選1位
- Rd.10 スネッタートン 6位 /予選6位
- Rd.12 シルヴァーストーン 1位 /予選2位
- Rd.5(R1) スパ・フランコルシャン 1位 /予選8位
- Rd.5(R2) スパ・フランコルシャン リタイア /予選2位
- 2000年8月 - マルボロ・マスターズF3(ザントフールト)28位 /予選2位
- 2000年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)リタイア /予選2位
- 2001年 - イギリスF3選手権 シリーズチャンピオン (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
- Rd.1(R1) シルヴァーストーン 12位 /予選3位
- Rd.1(R2) シルヴァーストーン 4位 /予選4位
- Rd.2(R1) スネッタートン リタイア /予選4位
- Rd.2(R2) スネッタートン 2位 /予選3位
- Rd.3(R1) ドニントンパーク 1位 /予選2位
- Rd.3(R2) ドニントンパーク リタイア /予選3位
- Rd.4(R1) オウルトンパーク 1位 /予選1位
- Rd.4(R2) オウルトンパーク 1位 /予選4位
- Rd.5(R1) クロフト 失格 /予選2位
- Rd.5(R2) クロフト 1位 /予選3位
- Rd.6(R1) ロッキンガム 1位 /予選2位
- Rd.6(R2) ロッキンガム 1位 /予選2位
- Rd.7(R1) キャッスルクーム 2位 /予選1位
- Rd.7(R2) キャッスルクーム 2位 /予選4位
- Rd.8(R1) ブランズハッチ 9位 /予選1位
- Rd.8(R2) ブランズハッチ 1位 /予選4位
- Rd.9(R1) ドニントンパーク 12位 /予選1位
- Rd.9(R2) ドニントンパーク 1位 /予選1位
- Rd.10(R1) ノックヒル 1位 /予選2位
- Rd.10(R2) ノックヒル 1位 /予選3位
- Rd.11(R1) スラクストン 2位 /予選2位
- Rd.11(R2) スラクストン 8位 /予選3位
- Rd.12(R1) ブランズハッチ 2位 /予選2位
- Rd.12(R2) ブランズハッチ 1位 /予選2位
- Rd.13(R1) シルヴァーストーン 18位 /予選3位
- Rd.13(R2) シルヴァーストーン 1位 /予選1位
- 2001年6月 - ヨーロッパF3選手権 リタイア /予選4位
- 2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジ(シルヴァーストーン) 1位 /予選1位
- 2001年8月 - マールボロ・マスターズF3(ザントフールト) 1位 /予選1位
- 2001年9月 - エルフF3マスターズ(スパ・フランコルシャン) 3位 /予選2位
- 2001年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)1位 /予選2位
[編集] 2002年
- Rd.1 オーストラリアGP リタイア /予選22位
- Rd.2 マレーシアGP 9位 /予選15位
- Rd.3 ブラジルGP 9位 /予選19位
- Rd.4 サンマリノGP リタイア /予選19位
- Rd.5 スペインGP リタイア /予選18位
- Rd.6 オーストリアGP リタイア /予選18位
- Rd.7 モナコGP リタイア /予選16位
- Rd.8 カナダGP 10位 /予選15位
- Rd.9 ヨーロッパGP 14位 /予選16位
- Rd.10 イギリスGP リタイア /予選14位
- Rd.11 フランスGP リタイア /予選14位
- Rd.12 ドイツGP 8位 /予選12位
- Rd.13 ハンガリーGP 10位 /予選14位
- Rd.14 ベルギーGP 11位 /予選16位
- Rd.15 イタリアGP 12位 /予選18位
- Rd.16 アメリカGP 11位 /予選15位
- Rd.17 日本GP 5位入賞 /予選7位
[編集] 2003年
- 2003年 - F1世界選手権スポット参戦 シリーズ18位(3ポイント) (チーム:B・A・R) (マシン:BAR005ホンダ)
- Rd.16 日本GP 6位入賞 /予選13位
[編集] 2004年
- 2004年 - F1世界選手権 シリーズ8位(34ポイント) (チーム:B・A・R) (マシン:BAR006ホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP 9位 /予選7位
- Rd.2 マレーシアGP 15位 /予選20位
- Rd.3 バーレーンGP 5位入賞 /予選5位(1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ)
- Rd.4 サンマリノGP 16位 /予選7位
- Rd.5 スペインGP 5位入賞 /予選3位(予選日本人最高位)
- Rd.6 モナコGP リタイア /予選8位
- Rd.7 ヨーロッパGP リタイア /予選2位(予選日本人最高位更新、日本人初のフロントロー獲得、日本人初のラップリーダーを記録)
- Rd.8 カナダGP リタイア /予選17位
- Rd.9 アメリカGP 3位入賞(1990年鈴木亜久里に並ぶ日本人最高位タイ) /予選3位
- Rd.10 フランスGP リタイア /予選7位
- Rd.11 イギリスGP 11位 /予選9位
- Rd.12 ドイツGP 8位入賞 /予選9位
- Rd.13 ハンガリーGP 6位入賞 /予選3位
- Rd.14 ベルギーGP リタイア /予選15位
- Rd.15 イタリアGP 4位入賞 /予選5位
- Rd.16 中国GP 6位入賞 /予選9位(エンジン交換で10グリッド降格)
- Rd.17 日本GP 4位入賞 /予選4位
- Rd.18 ブラジルGP 6位入賞 /予選6位
[編集] 2005年
- 2005年 - F1世界選手権 シリーズ23位(1ポイント)(チーム:B・A・R) (マシン:BAR007ホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP 14位 /予選19位
- Rd.2 マレーシアGP ウイルス感染に伴う発熱のため、欠場 サードドライバーのアンソニー・デビッドソンが代わりに出場
- Rd.3 バーレーンGP リタイア /予選13位
- Rd.4 サンマリノGP 車体の最低重量規定違反のため失格(5位入賞 /予選6位)
- Rd.5 スペインGP B・A・Rの出場停止処分により欠場
- Rd.6 モナコGP B・A・Rの出場停止処分により欠場
- Rd.7 ヨーロッパGP 12位 /予選16位
- Rd.8 カナダGP リタイア /予選6位
- Rd.9 アメリカGP リタイア /予選8位
- Rd.10 フランスGP 11位 /予選5位
- Rd.11 イギリスGP 16位 /予選8位
- Rd.12 ドイツGP 12位 /予選8位
- Rd.13 ハンガリーGP 8位入賞 /予選10位
- Rd.14 トルコGP 9位 /予選タイム抹消(14位)
- Rd.15 イタリアGP 16位 /予選5位
- Rd.16 ベルギーGP リタイア /予選11位
- Rd.17 ブラジルGP 10位 /予選19位
- Rd.18 日本GP 失格(13位完走もヤルノ・トゥルーリとの接触事故が危険行為とされた為) /予選5位
- Rd.19 中国GP リタイア /予選17位
[編集] 2006年
- 2006年 - F1世界選手権 シリーズ23位(0ポイント) (チーム:スーパーアグリ) (マシン:SA05ホンダ/SA06ホンダ)
- Rd.1 バーレーンGP 18位 /予選20位
- Rd.2 マレーシアGP 14位 /予選21位
- Rd.3 オーストラリアGP 12位 /予選21位
- Rd.4 サンマリノGP リタイア /予選21位
- Rd.5 ヨーロッパGP リタイア /予選21位
- Rd.6 スペインGP 17位 /予選20位
- Rd.7 モナコGP リタイア /予選19位
- Rd.8 イギリスGP 17位 /予選20位
- Rd.9 カナダGP リタイア(15位完走扱い) /予選21位
- Rd.10 アメリカGP リタイア /予選18位
- Rd.11 フランスGP リタイア /予選21位
- Rd.12 ドイツGP リタイア /予選19位
- Rd.13 ハンガリーGP 13位 /予選20位
- Rd.14 トルコGP リタイヤ /予選22位
- Rd.15 イタリアGP 16位 /予選21位
- Rd.16 中国GP 失格(14位完走も青旗無視のためレース後に失格となった) /予選21位
- Rd.17 日本GP 15位 /予選20位
- Rd.18 ブラジルGP 10位 /予選19位
[編集] 2007年
- 2007年 - F1世界選手権 シリーズ12位(0ポイント)(チーム:スーパーアグリ) (マシン:SA07ホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP 12位 /予選10位
- Rd.2 マレーシアGP 13位 /予選14位
[編集] 関連項目
- モータースポーツ
- 日本人ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
- アンドリュー・ギルバート-スコット(元レーサーで現在琢磨のマネージャー)
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 佐藤琢磨 『GO FOR IT! Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04076-0
- 佐藤琢磨 『佐藤琢磨2002F1ダイアリー:GO FOR IT! 2』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04083-3
- 佐藤琢磨 『佐藤琢磨2004F1ダイアリー:GO FOR IT! 3』 二玄社 2004年 ISBN 4-544-04096-5
- 原富治雄 『AURA Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04130-9
- 西山平夫 『君が代が聴きたい:佐藤琢磨とホンダF1の戦いを追って』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-29739-9
- 『F1CLUB特別編集 佐藤琢磨-優勝へのカウントダウン。』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-47684-6
2007年のF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー | |||||||||||||
マクラーレン | ルノー | フェラーリ | ホンダ | BMWザウバー | トヨタ | ||||||||
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レッドブル | ウィリアムズ | トロ・ロッソ | スパイカー | スーパーアグリ | |||||||||
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カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本のF1ドライバー | 東京都出身の人物 | 複数のスポーツで活躍した選手 | 1977年生