丹羽薫氏
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丹羽 薫氏(にわ しげうじ)は、江戸時代の大名。越後高柳藩の第2代藩主。播磨三草藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元禄8年(1695年) | |||
死没 | 宝暦7年5月22日(1757年7月8日) | |||
別名 | 猪之助、右近(幼名)、埼氏(別名) | |||
戒名 | 活性院殿英山源機大居士 | |||
官位 | 従五位下、式部少輔、和泉守 | |||
藩 | 越後高柳藩主→播磨三草藩主 | |||
氏族 | 丹羽氏(一色氏) | |||
父母 | 父:丹羽氏右、母:松平近良の娘 養父:丹羽氏音 |
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子 | 4男1女(丹羽氏栄、丹羽氏薫、巨勢利永、 娘(巨勢利啓室)) |
元禄8年(1695年)、丹羽氏右の子として生まれる。元禄15年(1702年)に岩村藩主だった丹羽氏音が御家騒動により高柳藩へ減転封された後、氏音の養子となって1万石を新たに与えられて藩主となり、後を継いだ。宝永6年(1709年)3月7日に叙任する。享保4年(1719年)に奏者番、元文4年(1739年)8月に大坂城定番に任じられる。
寛保2年(1742年)11月21日、越後高柳藩から播磨三草藩に移封される。宝暦7年(1757年)5月22日に死去。享年63。後を子の氏栄が継いだ。墓所:東京都杉並区の海運寺。
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