ノート:主体と客体
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[編集] 論評
前半の物理学的理解は良いとしても、後半は言葉遊びにしか思えない。具体的な人間の直観から解き起こして説明を試みて欲しい。
- 特にここの部分ですね:
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- それは存在以下なのか、存在以上なのか? 存在がメタ存在の認知(または認知の可能性)を必要とするならは、メタ存在は存在以上のものに見える。
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- 存在でないもの:非存在は存在しない。存在したらそれは存在である。それは存在しないので非存在と呼ばれる。存在の外に存在するものはない。存在したらそれは存在の一部である。
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- 「我々の知ること」は存在の一部ではない。したがって「我々の知ること」は存在しない。それにも関わらず、我々はそれとともにある。
- とりあえず、本文からは外して、ここに置いておきます。
- --Setu 20:25 2003年3月15日 (UTC)
質問ですが、宇宙は時空だけで存在するのでしょうか? つまり4次元と言うことです。それとも、宇宙は10次元から11次元くらいまでを含めて言うのでしょうか? 最近の物理学にはついて行ってないもので。。。。
存在と言うときは、どのくらいの次元までを言うのか、または 次元以上の概念がもしあればそれが含められるのか?
時間は「3次元の物」の変化の流れですから、4次元となります。
「可能性」は複数の未来の可能性で、ある点からの時間的な無限の分岐と見えます。そうすると、これは5次元的な性質かと思えます。 つまり、量子的な振舞いは5次元的な振舞いと言うことになります。
「我々の知ること」は量子の振舞いの「メタ的な働き」をしますから、5次元よりも上かもしれません。6次元かな?
あと、「3次元の物」も 3次元かどうかは分かりませんよね。空間は3次元かも知れないけど。「隠れて丸め込まれた次元」がその中に4つか5つくらいあるかも知れないし。
そうすると、量子的な時空は5次元で、「われわれの知ること」も含めると6次元。
「物質」が丸め込まれた5次元で、あわせて、10.5次元くらいかな?
ああ、こんなこと書いてしまった。やれやれ。
それでも、「我々の知ること」は次元の一部でもない気がするし。
「意識は、脳の一部で起きている量子的な出来事」って言うのを読んだことがあります。それを拾って来てネットであちこち読んで、『意識』でも書いてみようかな? まあ、僕等は存在の外から脳にある量子インターフェースを通してこの世界を見ているんじゃないかって個人的には思ってます。
--Setu 20:25 2003年3月15日 (UTC)
理論物理学でやってる次元関連の話については僕も知りたいですね。超ひも理論とかで10次元ぐらいまでは話をしていますが、それが何なのかはわからなかったです。記事名はやっぱり「次元」でしょうか。
Tomos 21:13 2003年3月15日 (UTC)
- 別の場所での Tomosさんの指摘に記事のタイトルを変えたら? と言うのがありましたので、それにお応えします。
- 「存在と目撃」ではどうでしょう? 目撃は witness の翻訳です。他に良いのがありますか? なかったら移動して良いです。代案としては:
- 「存在と意識」、「存在と観測者」
- 別の話しですが、存在での「コペンハーゲン解釈」のお話ありがとうございました。
- 最近どこかで読んだのですが、見えない並行世界(隣はせいぜい粒子のひとつくらいが違う)を仮定しても、量子効果というか、光の干渉かな? が説明できるそうです。この世界にあるのは、粒子だけと、隣の世界の集まり全部を含めると「波」の効果になるそうです。
- 「次ぎに起きることの確立」は時間の上の次元だと思うので、それは5次元の空間=(3次元空間 と 時間 と 場合?)になります。 観測者はそれを収束させることが出来ます。
- --Setu 20:44 2003年3月19日 (UTC)
こんにちは。「存在と非存在を超えて」の移転先ですが、Setuさんが提案したのとほぼ同じ意味ですが「主体と客体」という風に言い換えると多少どこかで聞いたような記事名になるかなと思います。「主客二元論」の方が「と」を含む記事名よりも焦点がしっかりしていて、「主客二元論とは、...」という冒頭の記述もしやすいように思うのですが、やや哲学色が濃いのでためらっています。どうでしょうか? いずれにせよ、この二元論をめぐるあれこれという形で今の記事の内容をうまく活用できるように思います。
「観測者問題」というのでもいいように思いました。人類学でよく問題になる「参与観察」をめぐる議論なんかもできますし。
あと、余談の方ですが、多世界理論の話は英語版には頻繁に出てきます。メインはこの記事でしょうか。平易な解説なので日本語版にも持ってこようかとも思ったのですが、これについての風評を知らないので、先送りしました。この手の本を読んだのは随分前なのでコペンハーゲン解釈の話も含め、書いていていまいち自信ないです。
「我々の見ること」の個人的な解釈を説明しておきます。たぶん、ここに誤解があるような気がしたので。
「我々のみること」は単に「目撃」を行う存在というか、「目撃」を「目撃するもの」の違いはないです。
別に魂がどうのこうの、肉体を離れた世界がどうのこうのという話しには繋げるつもりは、これっぽっちもないです。「われわれの見ること」は存在の一部ではないでしょうが、その属性はほとんど、「目撃」以外にはないと思っています。
それは、「光」の実体なのではないかと思っています。
光は、光速ですから僕等から見て相対的に時間は止まっています。存在の最初に出来たのが光(純粋なエネルギー)だとすると、その時にできた光を僕等が見ても、それは存在の最初の瞬間の光の姿です。(とはいえ光には内部に変化する状態はないと思いますが)
光は粒子から変換されますが、それをその瞬間に「出来た」のか、それとも粒子として捕獲されていた光が、捕獲状態から解放されたと見るのかは、どちらなんでしょう? 話の都合上 :p 捕獲されたとみなします。
空間(多次元)が、一点(ゼロ次元)から始まったとすると、僕等が見ることの出来る光はその時の状態のままです。これは、「無」に近いものだと思っています。
光子が一点にいくつでも存在できると言うことと、性質が似ています。光-自身にとって、光はまだひとつのままだからです。
あくまで想像ですが、ゼロ次元(時間軸も存在しない)から、次元(自由度?)が出来て行って、世界が出来て行ったように思っています。「光」は僕等からの観測では、相対的に時間が止まっているので、僕等が観測する光子は、それが生まれた時の状態のままです。
光が誕生したときに時間は存在していたかというと、存在していなかったと思います。少なくとも、光が存在するのに時間は必要がないように思います。ただ、(光の)速度があるためには空間と時間が必要ですから、まあ、光が出来たので仕方がなしに、速度と時間などの光の属性を表現する枠組が出来たのかも知れません。
光速には、加速を通じて達することが出来ませんから、最初から光速である必要があります。または、質量がゼロである必要があります。
また、我々から見て「光」はその出来た直後の状態を保存していますから、世界が一点であったとき(の直後)を保存しています。
さて、観測されたことは、脳(かどこか)にある量子的な(?)インターフェースを通じて、肉体の観測を「我々のみること」に繋げます。「我々の見ること」が「光の実体:光の出来た直後の状態」だとするとそれは、全ての起きる前(か、直後)になります。
上の様に考えると、「観測すること」は、非常に大きな意味を持っていますから、粒子の状態に影響を与えることはなっとく出来るような気がします。
また、我々の本性は「無」と捉える禅的な探求者の意見とも似て来ます。
変な話をしてしまいました。
--Setu 04:14 2003年3月21日 (UTC)
Setuさん。わかんないです。 ^^;) スミマセン。
光が不思議だということ(特に時間が経過しない点と、パウリの排他律があてはまらない点で)は僕も感じます。あと、観測なり認識なりが物事を「確率分布」から「存在」へ換えるというコペンハーゲン解釈ももちろん不思議です。「月を見ていなかったら月はないのか?」みたいな素朴な疑問は多くの人が持つわけですし。(アインシュタインがそう言ったという話も聞きますし。)
ただ、観測は視覚によるものとは限らないですよね。あと、世界の最初にできたのが光というのは物理学的にはどうなんでしょうか。ビッグバン理論だと光とクォークとが混在していたとかいうことではありませんでしたっけ? Setuさんの使っている用語の意図が一部うまく汲み取れないというのもありますが。
とりあえず、僕が思っていたのは、「観測する自分の意識」というのは現実世界の時空中に位置づけられるのか? (具体的には脳の特定の部位に、という)という比較的よるある疑問を手がかりにして、「全ては自分の夢想かも知れない」という「独我論」/「唯我論」や「意識は物質世界には属していないけれども、物質世界は実在しているだろう」という「二元論」に触れる、というようなことを考えていました。「魂」についてはどの程度その記事で扱えるかはわかりませんが、「もしも意識がこの世界に属していないとしたら、肉体が滅びると意識はどうなるのか」という疑問もそれほど突飛ではないわけで、「それが魂の存在を支持する最も強力な根拠だ」とか「だから人は魂について考えてきた」とまでは言わないまでも「そういう理由もあって魂という概念についてあれこれと考える人もあった」という記述があるといいのではないか、と思います。
魂については、多くの文化に長い間似た様な概念が存在してきたわけで、執筆者としてそれを信じるか信じないかに関係なく、記述はされるべきですよね。独立した記事としても存在するべきだと思います。
そういうわけで「主客二元論」あたりにこの記事を移動させるといいんではないかな、と思っていたわけですが、それがSetuさんの記述したかった事柄とうまく噛み合っていないとしたら考え直します。
ご意見下さい。:) Tomos 07:22 2003年3月21日 (UTC)
以下の部分、基本的には重要な部分はきちんと反映させたと思うのですが、文面的には残せませんでした。 どうしてそういう表現になっているのかよく理解できないところもあり、また一部宗教と科学一般の対比に重点が置かれているものを哲学的な話題を取り込んで再編したせいもあり、実際にはとりこめていない論点などもあるかも知れないので、一応引用しておきます。もし取りこぼしなどあったら指摘して下さい。あるいはそのまま記事の方を訂正して下さい。
また、認知科学、言語、解釈学について何か書こうと思ったのですが、どこに書くかよい案がないままあきらめました。精神病や心の問題に対する精神分析やカウンセリングによるアプローチと、薬物投与によるアプローチという対比も思い浮かんだのですが、これも書かずに終わりました。
更に、今回は「主体と客体」「心身」「主観と客観」という3つをまとめて記しましたが、これは主体と客体についての記述を増やして後者2つはそれぞれ独立記事へ、という形にするのがいいと思います。
Tomos 08:17 2003年4月22日 (UTC)
(以下、削除部分)
科学を客体科学(subjective science)、宗教性の探究を主体科学(objective science)と、呼ぶ場合もある。客体科学は主に西洋において進化し、主体科学は主に東洋におい て進化している。
[編集] 存在と知る者
存在とは宇宙を含んだより大きいものの呼び名である。また、宇宙に含まれる部分をさして存在と呼ぶこともある。
最終的に、存在とは知的存在が認知することであり。また、例外なく適当な手段と理解する能力さえあれば、任意の知的存在が共有して認知できるものである。それは、観測を通して行われることもあれば、論理的な帰結として理解され認知する場合もある。観測とは、物理的な法則(相互作用)を通して間接的に知ることである。
量子物理学では、観測以前と観測以後では存在の状態は異なる。例えば、素粒子は観測以前は、何らかの範囲で不確定な焦点のぼやけた状態にあり、実際にそのぼやけた状態のまま時間を進んで行く。観測の時点では、焦点のあった状態になる。例えば、二つの存在の状態を示す要素の合計ははっきりしているが、それぞれの要素の状態はぼやけたまま存在する。
例えば、エネルギーは知られているが、エネルギーの根拠である速度と重さは不確定なまま存在する。速度が観測された時点で重さが確定する。それは単に知られていないと言うだけでなく、ぼやけた状態のまま存在し続ける。
知的な存在が一般的に認知する、「観測する」「理解する」とはどういうことであろうか? これを仮に「我々の知ること」と呼ぶ。その定義は困難かも知れないが、誰でもがそれを知っている。
「我々の知ること」は、存在の一部なのか、一部ではないのか? 少なくともそれはメタ存在として振舞うように見える。メタ存在は、存在の一部としてあり得るのか?