主体と客体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
主体と客体(英:subject and object) は、この世界の様態を捉えるために広く用いられる、基本的な枠組みのひとつである。世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める。
この枠組みを肯定し、主体と客体はいずれか一方を他方に解消することができないと考える哲学的な立場を主客二元論と呼ぶ。これに対し、全ては物質的な存在やそれらが引き起こす出来事であるとする立場は唯物論と呼ばれる。また、全てが意識の産物であって、外界や物質的存在があることを認めない、あるいは強く疑う立場は独我論、唯我論などと呼ばれる。ヴェーダの宗教などでは、主体と客体の分離が消失する場合があるとし、それを重視する考え方もある。「主客一体」「梵我一如」などと呼ばれる。いずれの立場も、他の2者を意識しつつ構築されることが多く、主体と客体という分類枠組みは、肯定されるにせよ否定されるにせよ、ある程度理解、共有されている。(しかし仏教、特に中観派においては、主体と客体というような二項対立的な見方を謬見として徹底的に斥ける。この延長線上で実践したのが中国唐代の禅であり、彼らの目標は「主と客」という意識(念)の起きる以前の意識の探求であった。またヨーロッパにおける脱近代の思潮にもこのような見方があることも特筆しなければならない。)
主体と客体は、このように世界のありさまを捉えるための枠組みだが、同様の、密接に関連した区別が人間のありさまを捉えるためにしばしば用いられる。意識や心と身体との区別である。哲学的には、両者の区別を肯定、前提する立場は心身二元論と呼ばれる。両者の間の因果関係、つまり自由意志の問題は、英語圏の哲学では特に心身問題と呼ばれる。
また、これらとよく似た、関連の深い区別が、認識論の領域においても存在している。すなわち、主観と客観の区別である。
科学的な研究は、通常、物質的な存在、事象の観察と理論化を通じて行われる。社会科学でも、そのような経験主義的アプローチをとる学問は多い。直接観察できない事象については言及、仮構を控える行動主義のような立場もある。こうした認識論的な態度を一般に客観主義と呼ぶ。この立場の特徴は物事についての客観的な事実を確定することを研究の目標とし、またそれが可能であると考える立場である。
それに対し、内省や内観を重んじる立場もある。フッサールの現象学やその成立にも影響を与えている心理学の一部、また宗教的瞑想などは、物事の真理に到達するために観察ではなく意識や自己のあり方、理解や直観の性質を考察する。これは一見奇妙なアプローチだが、人が通常客観的な存在だと前提している物事が、よく吟味してみるとそうとは言えない、といった点を明らかにする効果などがあり、必ずしも無意味な思弁に終始するとは限らない。
また、カントのように人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、ありのままの事物(物自体 Dinge an sich)を知ることは不可能である、と考えることは現代においても比較的広く受け入れられている発想である。必ずしも物事の直接的な観察に基づく研究ではない数学が現代科学で決定的な役割を果たしていることは、しばしばこれと関連づけられる。
目次 |
[編集] 語義
[編集] subject
subjectum は下に投げられたものという語構成のラテン語で、アリストテレスのヒュポケイメノンに由来し、属性がそこにおいて属すべき基体を意味した。この意味でのSubjectは、論理学的な観点からは述語的なもの(属性や様態)に対して主語的な実体を意味するが、それは必ずしも近代哲学的な意味での「主体」のことではない。
デカルトの懐疑論的な、現象主義の枠組みにおいて、現象や観念(idea)の基体(subject)はすなわち、意識主体(コギト)であるということになり、彼以降、subjectには主観という意味が発生した。この傾向はカントにおいてよりはっきりと顕著になる。
ヘーゲルにおいては、このsubjectが認識論的なだけでなく実践的な対立矛盾の相において把握されることになり、この意味合いでは主体という訳語を受け取ることとなった。
[編集] object
objectumは前に投げられたものという語構成のラテン語で、前面の対象を意味し、中世哲学においては、意識の対象として、表象や観念に相当するものを意味していた。
近世になって、デカルト哲学の懐疑論的な現象主義の枠組みにおいて、外的実在は、もはや神の理性や観念との関係においてではなく、主観における観念や表象、つまり意識の対象という形で、すくなくともそうした対象を通じて把握されることになり、ここで、objectに客観という意味が発生した。