乃木勝典
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乃木勝典(のぎ かつすけ、明治12年(1879年)8月28日 - 明治37年(1904年)5月27日))は、明治時代の陸軍軍人で、乃木希典・静子夫妻の長男。戦死時の階級は陸軍歩兵少尉。戦死による一階級特進により、最終階級は陸軍歩兵中尉。華族。陸士13期。
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[編集] 来歴
1879(明治12)年8月28日、乃木希典・静子夫妻の長男として出生。
父親と母親の良い面・悪い面をそれぞれ受け継いだ典型的な人物であったといわれる。
[編集] 学才・性格など
元来、父方の乃木家は(希典が、漢詩ので有名であるが)学問的な分野に乏しく、一方で母方の湯地家は学問的な分野に秀でており、母・静子およびその両親・兄姉らは学問的に優秀であった。
勝典は学識的な才能はあまり思わしくなく、陸軍士官学校の採用試験に2度不合格になっており、3度目で辛うじて合格している。
性格は母・静子に似て大人しく、身体も病弱だったようである。
[編集] 合格祝い
2度の陸軍士官学校採用試験に落ち、3度目で漸く合格した時、希典から合格祝いとして1000円を貰い、500円の望遠鏡を購入した。
(当時、陸軍士官学校は一生涯のうち3度しか受験することが出来ず、勝典は3度目の正直で合格した。
また、当時の1000円は陸海軍の各大将クラスが給与で貰う数か月分であり、それだけの額を貰ってしまえば生活が傾き、静子に多大な迷惑を掛けると想い、母に対する愛情の念などから1000円も貰う訳にはいかず、500円の望遠鏡を購入することにしたのである。)
[編集] 日露戦争に出征、そして戦死
日露戦争に陸軍少尉として出征、歩兵第1聯隊第9中隊第1小隊長を任される。
出征直前に、静子が東京・銀座にある高級化粧品店「資生堂」で1つ9円もする香水を買ってくる。
勝典はそれを貰い、お守りとして出征した。
(当時の9円とは一般の成人女性が精一杯働いて稼ぐ約2か月分である。
静子がそれほどまでに高い香水を渡したのは、もしも戦死した場合、遺体から異臭が放たれれば大事な愛息子が不敏この上ないという母親としての哀しいまでの愛の表現である。)
金州南山(通称:「金山」または「南山」)を進軍していた時、何日も風呂に入れない日が続いた。
その時、もう自らが戦死する可能性が高いことを示唆する内容の手紙を、それが判らないように記して静子に宛てて送っている。
長期に渡る進軍が続いた1904(明治37)年5月27日、ロシア軍が放った銃弾が勝典の腸部に直撃、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、数時間の間、従軍していた陸軍軍医による手術・治療を野戦病院にて受けたが、出血多量で戦死。
大怪我を負ったことは別の地(と言っても比較的近い場所で203高地)を進軍していた弟・保典にも伝わり、進軍しながら何度か様子を見に見舞っている。
勝典は自分が生きて最後に保典とあった時、母・静子のことを頼んでいる。
勝典が戦死したことは数日後に静子の耳に届けられた。
静子にとって勝典は第一子、それも病弱で常に心配して大事に育ててきた勝典である。
姑・乃木寿子(久子表記の文献有り)との確執に耐え切れず、別居生活をしていた時も気遣い、優しく守ってくれた勝典が戦死したと聞いた時、静子は我を忘れて3日未晩、号泣した。
一説には血の涙を流して泣き崩れたとも言われる。
[編集] 戦死後
1階級特進で陸軍中尉に昇進。
その後、青山霊園に納骨された。