久保田金造
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久保田 金造(くぼたきんぞう、1916年1月25日 - 1991年8月22日)は、元騎手(札幌競馬倶楽部、阪神競馬倶楽部、日本競馬会)、元調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。調教師顕彰者。北海道札幌市中央区盤渓出身。1929年、北海道琴似尋常小学校高等科卒業。兄の久保田彦之も調教師。
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[編集] 経歴
農家の6男として生まれる。実家では農耕馬を飼っていたため、幼少の折から馬に親しんだ。1931年、札幌競馬場にある異母兄・上村大治郎の厩舎にて見習騎手となる。1932年、騎手免許取得。騎乗機会に恵まれなかったため、1934年に鳴尾競馬場の美馬勝一厩舎へ移籍。 1937年、調教師免許を取得。1944年にカイソウで東京優駿競走(日本ダービー)を制した。
太平洋戦争の戦況悪化により競馬開催が一時停止になると北海道へ疎開し、1946年夏の進駐軍競馬に参加した。
1948年、国営競馬の調教師として競馬界に復帰。以後1958年の東京優駿(日本ダービー)をはじめ八大競走9勝、JRA発足以降1000勝を挙げる実績を残した。JRA通算1000勝を達成は1991年7月7日。それから約1ヶ月後の8月22日、心筋梗塞により現役の競馬人として生涯を閉じた。
代表的な管理馬はキタノオー(天皇賞(春)、菊花賞、朝日杯3歳ステークス)トラックオー(天皇賞(秋)、菊花賞)、ニッポーテイオー(天皇賞(秋)、安田記念、マイルチャンピオンシップ)など。
[編集] 幻の記録
調教師として「幻の記録」をいくつか経験している。
代表的なものは1944年に能力検定競走「長距離特殊競走」として行われた現在の菊花賞である。管理馬カイソウは1位で入線したものの、出走馬すべてが走行するコースを間違えたため競走不成立となり、カイソウは失格となってしまった。
また、1948年に優駿競走(日本ダービー)を優勝したミハルオーは実質的には久保田の管理馬であったが、国営競馬への復帰手続きが間に合わなかったため記録上は異母兄・上村大治郎の管理馬とされた。そのため、幻の東京優駿(日本ダービー)2勝目(当時)となった。
[編集] 成績
[編集] 騎手成績
騎手時代は記録がなく不明。
[編集] 調教師成績
10041戦1000勝、重賞46勝。(日本中央競馬会発足以降)
[編集] 主な勝ち鞍
- 天皇賞(春)(1949年ミハルオー、1957年キタノオー)
- 天皇賞(秋)(1952年トラックオー1987年ニッポーテイオー)
- 東京優駿(日本ダービー)(1944年カイソウ、1958年ダイゴホマレ)
- 菊花賞(1951年トラックオー、1956年キタノオー]、1960年キタノオーザ)
- 優駿牝馬(1963年アイテイオー)
- 安田記念(1988年ニッポーテイオー)
- マイルチャンピオンシップ(1987年ニッポーテイオー)
- 朝日杯3歳ステークス(1955年トラックオー、1956年キタノヒカリ、1961年カネツセーキ)
- 中山大障害(春)(1955年キタノイヅミ)
[編集] 所属騎手
鹿戸雄一 (~1991) 蛯名信広
[編集] 受賞
- 優秀調教師賞(関東)(1988年)
- 調教技術賞(関東)(1969年)
- 重賞獲得調教師賞(関東)(1987年)