二式単座戦闘機
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二式単座戦闘機(にしきたんざせんとうき。)は中島飛行機が開発した、大日本帝国陸軍の単座戦闘機。機体開発ナンバーはキ四十四、報道用に与えられた愛称は鍾馗(しょうき)。米軍コードネームは当時の内閣総理大臣から"Tojo"とつけられた(以下、鍾馗)。名称に単座とあるのは、同年に採用された屠龍と区別の為で、こちらは二式複座戦闘機と呼ばれる。
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[編集] 概要
当時の陸軍の重戦思想に沿ったもので、旋回性能よりも速度と火力を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能を備えた優秀な迎撃機であったが、反面、旋回性能、航続力は低く、着陸が難しいなどの理由で、格闘戦を好む保守的な搭乗員には嫌われた。
だが、5000mまで4分15秒(II型甲)の高い上昇力に、850km/hを超える急降下性能を併せ持った戦闘機は日本では本機だけであり、陸軍航空本部がエネルギー空戦というものを理解し、搭乗員を教育できていたならもっと高い評価を得られたことであろう。
事実、鹵獲機を使った米軍のテストでは、キ-44より後に開発された雷電や紫電改を差し置き、「最も優秀な迎撃機」と評価されている。しかしその評価とは裏腹に機体は現存していない。
[編集] 開発の流れ
キ-44の開発が指示された当時、日本陸軍は将来的に2種類の戦闘機が必要になると考え、中島・川崎・三菱の各社に、軽武装で旋回性能を重視した軽戦と、重武装で速度を重視した重戦の開発を指示した。これに対する中島の回答が、軽戦のキ-43と重戦のキ-44であった。
九七式戦闘機の発展型として開発の進んだキ-43に比べ、重戦というものの開発経験のない陸軍および各メーカーでは、重戦の基本仕様をまとめるだけでも手間取り、開発スケジュールはキ-43よりも後回しにされた。とりあえず、中島では、ドイツのメッサーシュミットBf109を目標に、当時入手可能だった最大出力のエンジン、ハ-41(離昇1,250 馬力)を装備し、主翼面積15m2、主翼に20mm機関砲装備の線で開発が進められた。
20mm機関砲は、海軍と同じエリコンを予定していたようであるが、生産の目処は全く立たず。結局、翼内に12.7mm×2、機首に7.7mm×2という、とても重武装とは呼べない装備になってしまった。
試作機は1940年10月に初飛行したが、性能不足で不具合も多かったため、各所に改良を施し、最終的には最大速度580km/h、非武装の状態で616km/h、外板の継ぎ目を目張りした状態では626km/hを記録した。
しかし、従来の戦闘機に比べて旋回性能で劣り、大直径エンジンのおかげで駐機姿勢での前方視界が悪く(ただし空中での視界はそのエンジンから絞り込んだ機体設計のため極めて良好だったと伝えられる)、離着陸も難しい本機に対する陸軍の反応は冷ややかで、全く採用の見込みはなかったが、ドイツから輸入したBf109Eとの模擬空戦において、キ-44の性能がBf109Eを上回ると判るや態度は一変し、米英の一線級戦闘機に対抗可能な戦闘機と位置づけられ、増加試作機による独立飛行第47中隊を編成し、実用試験を兼ねて実戦投入、1942年2月にようやく二式単座闘機一型として制式制定された。
第二次性能向上型として2000馬力級発動機を搭載したキ-44Ⅲの開発は、全面的に内容が変更されたキ84四式戦闘機へと移行し、鍾馗の生産はほぼ昭和19年いっぱいで終息する。
余談であるが、Bf109Eと共に来日した、メッサーシュミット社のテストパイロット、シュテアーは、キ-44に試乗し、「日本のパイロットが全員これを乗りこなすことが出来たら、日本空軍は世界一になる」と発言したと言われる。この発言については、「機体の性能を素直に賞賛した」「操縦性の難しさを皮肉った」という二つの受け止め方がある。
[編集] 技術的特徴
速度/上昇力優先の設計思想に基づき、大出力大直径のエンジンに軽い胴体、小さい主翼を備えているが、胴体はエンジン直後から急に細く絞り込んである。この点、同じく大出力大直径発動機を装備しながらさらに太い紡錘形胴体に設計された三菱の雷電とは対照的である。
水平尾翼のかなり後方に配置する垂直尾翼は、機動から射撃の体勢に移ったときの安定を高めている。このため射撃時の据わりがよく、機銃の命中率が高いと好評であった。この評判のためかこの構造は後の四式戦にも受け継がれていった。
主翼は、2本桁のボックス構造で、内側を波板で補強してあり、850km/hの急降下でもびくともしない強度を確保している。平面形は、スパンこそ短いものの、九七戦以来の翼端失速に強い前進翼を採用しており、フラップは中島独自の蝶型フラップ(ファウラーフラップの一種)を採用している。蝶型フラップは、高速戦闘機の旋回性能を高める効果が期待されたが、使用するタイミングが難しく実戦では殆ど使われなかった。
一型が搭載したハ-41エンジンは出力が不足気味で予定性能に達し得なかったため、性能向上したハ-109(離昇1,500馬力)が二型に装備され、鍾馗の主力生産モデルとなった。とはいえ、ハー109も稼働率の点から気難しいエンジンであることには変わりなかったようだ。
[編集] 実戦配備
最初の実戦部隊は前述の通り、増加試作機とI型を装備した独立飛行47中隊。太平洋戦争の緒戦から戦闘に参加し、インドシナ、マレー、ビルマと転戦したが、航続距離が短く敵地への侵攻ができなかったため、同方面に投入された一式戦闘機にくらべて華々しい活躍の機会にはめぐまれず、その後内地に呼び戻され、47戦隊に改変された。
1942年12月、性能向上した二型が生産に入り、1943年に入ってから少数の部隊が鍾馗に機種改変し、主に本土防衛と中国戦線に投入された。
1944年、本土にB29が飛来するようになると、外地にあったいくつかの部隊は本土防空に呼び戻されて、各地の基地に展開し、47戦隊や70戦隊などが大きな戦果を挙げたが、高高度を飛来するB29の迎撃は不得手であった。
以上のように、太平洋戦争の緒戦から終戦まで活動した鍾馗であったが、陸軍の冷遇ぶりは終始変わらず、大戦末期になっても旧式の眼鏡式照準器を装備した機材があったり、当時の日本戦闘機では当り前になっていた推力式単排気管への改造さえ、全く行われなかった。(この簡単な改造を施すだけで、速度は10~20km/h向上した)
ただ陸軍には扱いが難しい機体であっただけであり、戦争末期の陸軍で信頼できる機体が一式戦闘機だけであった現状もある。
[編集] 諸元
正式名称 | 二式単座戦闘機二型丙 |
試作名称 | キ四十四Ⅱ丙 |
全幅 | 9.448m |
全長 | 8.85m |
全高 | 3.248m |
自重 | 2,109kg |
正規全備重量 | 2,764kg |
発動機 | ハ一○九(離昇1,500馬力)1基 |
最高速度 | 605km/h(高度5,200m) |
上昇力 | 5,000mまで4分26秒 |
航続距離 | 1,600km(増槽あり) |
武装 | 胴体12.7mm機関砲×2(携行弾数各250発)、 翼内12.7mm機関砲×2(携行弾数各250発) |
爆装 | 30kg~100kg爆弾2発または250kg爆弾1発 |
生産数 | 1,227機 |
[編集] 参考文献
- 碇義朗 『戦闘機 疾風』 廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年。
- 文林堂編 『世界の傑作機 No.147 特集・陸軍二式単座戦闘機 鍾馗』 文林堂、1985年。
- 宮田豊昭 「翼烈伝 国破れて戦闘機」 スカイネット・ワン事務局、2002年7月9日。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の戦闘機 | 大日本帝国陸軍航空機