一式戦闘機
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一式戦闘機(いっしきせんとうき。以下、一式戦)は旧日本陸軍の太平洋戦争(大東亜戦争)前半における主力戦闘機。愛称は隼。アメリカ軍がつけたコードネームは「Oscar」。開発メーカーは中島飛行機だが、立川飛行機でも生産された。総生産機数は5,700機以上で、日本の戦闘機としては零戦に次いで二番目に多い。外見が類似していることから、交戦相手の米英軍パイロットから零戦と誤認される事も多かった。ビルマ方面の英軍からは、「ゼロ」に類似した一式戦闘機ということで「ゼロワン」と呼ばれることもあったという。
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[編集] 開発と名称
1937年(昭和12年)12月に陸軍からキ四三の試作内示が行われ、中島では小山悌設計課課長を中心とする設計課が開発に取り組んだ。研究課空力班から戦後国産ロケット開発で大きな足跡を残すことになる糸川英夫技師が設計に協力した。引き込み式主脚以外の基本構造を前作の九七式戦闘機(以下、九七戦)から踏襲したことから、開発は比較的順調に進み、翌1938年(昭和13年)12月に試作一号機が完成、同月12日に初飛行している。しかし、試験飛行の結果、ノモンハン事件で活躍した九七戦に比べ航続距離が長いものの、最高速度の向上が僅かな上に旋回性能も劣る事が判明したため、キ四三試作機型をそのまま採用することは見送り、より強力な発動機に換装して高速化を図った改良型(キ四三-二)の開発を進めることが一旦決定された。
ところが、開戦が避けられない情勢になり、遠隔地まで爆撃機を援護することが出来る航続距離の長い戦闘機の需要が生じた。米英の新鋭戦闘機に対抗可能と考えられたキ四四(後の二式単座戦闘機「鍾馗」)の配備が間に合わないことと、飛行実験部実験隊長の今川一策大佐の推薦もあり、一転してキ四三試作機型に最低限の改修を施した機体が急遽正式採用されることになった。このため、開戦時に配備されていたのは僅か二個飛行戦隊であったが、その後旧式化した九七戦に代わって陸軍戦闘機隊の主力機材となった。ちなみに、登場したばかりの頃は一式戦の存在自体が知られておらず、また当時の陸軍戦闘機は胴体に国籍標識の日の丸を記入しなかったこともあり、海軍の零戦ばかりか、身内の陸軍の九七戦のパイロットからも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空中戦が起きるなどの珍事もあった。このため開戦から1年ほど経つと陸軍戦闘機も胴体に日の丸を描く様になっている。
キ四三は試作名称。皇紀2601年(昭和16年、1941年)に正式採用されたため、下二桁をとって「一式戦闘機」と命名された。以前より陸軍では戦闘機の比喩表現として「荒鷲」「隼」といった猛禽類の呼び名を用いており、例えば飛行第六十四戦隊は九七戦装備の時代から「加藤隼戦闘隊」であった。後に一般国民に対する宣伝のため、一式戦闘機にも愛称として「隼」が採用され、広くこの名で知られ親しまれることとなった。
[編集] 飛行性能
[編集] 最高速度・上昇力
ハ二五(離昇950馬力)を搭載した一型の最高速度は495km/h/4,000mにとどまった。ハ二五は二一型以前の零戦に搭載された「栄一二型」とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタンの燃料を使用していたことが零戦との最高速度の違いとなって現れたと考えられる。エンジンをより高出力のハ一一五(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装した二型試作型の最高速度は515km/h/6,000mに向上、主翼を短縮し増速効果のある推力式単排気管を装備した二型の後期生産型ではこれより30km/h以上高速だったとされる。更に高出力なハ一一五-二に換装した三型では、最高速度が560km/h/5,850mに向上しているが、機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。このような改良にも関わらず、米英の新鋭戦闘機と比較すると劣速であるのは否めず、「ニューギニアは南郷で保つ」とまで謳われた飛行第五十九戦隊の南郷茂男大尉(戦死後中佐)すら、1943年(昭和18年)末の戦死一週間前に「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代に非ず」と日誌で嘆いている。
[編集] 加速性能
最高速度では米英の戦闘機に見劣りしていた一式戦だが、機体が軽いために加速性能に優れていた。その加速性能はP-47サンダーボルトやP-51ムスタングといった米英の新鋭機にも劣らず、低空においてP-47が急加速した一式戦に引き離された、という事例も報告されている。ただし、その軽さと脆弱性が災いして、急降下における加速性は劣っており、これが大きな弱点ともなっていた(零戦も同様)。
[編集] 運動性能
一式戦は1,000馬力級エンジン装備戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最高速度が九七戦とさほど差がなかったことから、その代替として九七戦と同等以上の旋回性能の確保が要求されたため、キ四四用に開発された蝶型フラップ(空力班として、これらの研究開発に携わっていたのが糸川技師)が装備された。このフラップは空戦フラップとしても使用することが可能で、旋回半径を小さくするのに効果的であったと言われるが、扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったと思われる。なお、九七戦との比較については、後に空戦フラップを使用しなくとも、上昇力と速度を生かした垂直方向の格闘戦に持ち込む事で圧倒可能と判断されている。
[編集] 武装
一式戦は「運用目的を対戦闘機戦闘に絞ることで、武装の限定等の軽量化を可能とし、低出力エンジンでも一定の性能を確保する」という思想の元で開発されたため、当初はドイツのMG17 7.92mm機関銃2挺の国産型のみの搭載が予定されていた。この機関銃は口径こそ従来の7.7mm機関銃と大差ないが、より発射速度と弾丸威力の大きい新型であった。ところが、使用するバネの国産化が上手くいかなかったため、キ四三試作機や初期の量産型には従来の八九式7.7mm機関銃が装備されたが、開発中だった12.7mm機関砲の生産に目処がついたことから、一型に対し機首左側の7.7mm機関銃の12.7mm機関砲への換装が順次施され、開戦時までには全ての機体が機首右側に7.7mm機銃1挺、左側に12.7mm機関砲1門装備となった。
新型の12.7mm機関砲はホ一〇三と呼ばれ、基本的にはブローニングM2の機構とイタリアのブレダの弾薬(もともとはイギリスのヴィッカース系12.7x81SR。M2は12.7x99)を組み合わせたものである。M2より一回り小型軽量であり、原型にはない炸裂弾も使用可能であるという長所がある一方で、軽量弱装弾を使用しているため、M2と比較して威力や射程が劣るという短所もあった。また初期は炸裂弾の信管に不具合があり、弾丸が銃身内で破裂して機体を破損するケース(腔内破裂)が多発し、敵機からの攻撃以外にこれらの事故によって墜落したものがかなりの数に上ったと言われる。このため、初期には機関砲の砲身に鉄板を巻くことで腔内破裂時の被害を少しでも軽減する措置がとられ、性能が安定した後期でも燃料に着火できる曳光弾で代用されることも多かったという。
「空の狙撃兵」と呼ばれた九七戦譲りの高い射撃安定性を持つ一式戦は、搭載機銃数の割には命中率がよかったと言われる。とは言え、ラバウルやニューギニア、ビルマにおいて、重防御のB-17やB-24をなかなか撃墜できないなど、設計時に想定していない大型爆撃機迎撃に用いるには火力が不足しているのは明らかだった。「加藤隼戦闘隊」として有名な飛行第六十四戦隊戦隊長である加藤建夫中佐が撃墜されたのも、火力不足を補うために爆撃機(英軍の双発爆撃機ブリストル「ブレニム」)に接近しすぎたことが原因の一つだったと言われている。
米英機との火力差を埋めようにも、主翼が機銃/機関砲搭載に向かない桁構造であったため、搭載するには主翼構造自体を変えせざるを得ず、新たな生産ラインを作る手間と時間が必要だった。しかし、同じ中島飛行機においても、より高速で翼内機関砲を持つ二式単座戦闘機「鍾馗」や四式戦闘機「疾風」の開発・配備が進んでいたためか、一式戦への翼内機銃/機関砲の装備は見送られた。手っ取り早い武装強化として、主翼下へのガンポット装備も検討されたが、飛行性能が低下することからこれも見送られている。大戦末期に12.7mm機関砲の拡大型である20mm機関砲(ホ五)を搭載した三型乙も試作されたが、本格生産には至らなかった。
[編集] 諸元
正式名称 | 一式戦闘機二型 |
試作名称 | キ四三-二 |
全幅 | 10.837m |
全長 | 8.92m |
全高 | 3.085m |
自重 | 1,975kg |
正規全備重量 | 2,590kg |
発動機 | ハ一一五(離昇1,150馬力) |
最高速度 | 536km/h(高度6,000m) |
上昇力 | 5,000mまで4分48秒 |
航続距離 | 3,000km(増槽あり)/1,620km(正規) |
武装 | 胴体12.7mm機関砲2門(携行弾数各270発) |
爆装 | 30kg~250kg爆弾2発 |
[編集] 再評価
カタログスペックから見ても太平洋戦争後半には完全に旧式化したと思われる一式戦だが、1945年まで生産が続けられた。すでに戦力外とも思える機体を終戦間際まで生産した事に、陸軍の不手際が指摘される事もあるが、戦争末期になっても米軍の一式戦闘機に対する評価は意外に高く、『零戦よりも手強く油断のならない機体』とされている。少なくとも三式戦「飛燕」のように『喰い易い機体』と酷評されてはいない。戦争末期に「大東亜決戦機」として、陸軍の主力戦闘機として重点的に生産された四式戦闘機は、無理な量産計画により粗製乱造された結果、故障が続発し、また飛べたとしても大幅にカタログスペックを下回ることが多かった(それでも一式戦や三式戦より高速だが)とされ、全生産期間を通じて比較的安定した性能(必ずしも高いとはいえないが)を維持していた一式戦闘機のほうを信頼するパイロットも多かった。
実際最後期の三型では、同時期の零戦が重量の増加で相対的に飛行性能を落としていたのに対し、速度でも上昇力・運動性でも優越した機体になっていた。陸軍パイロットの中には、運動性能が高くて故障が少ない三型を「(最初の一撃を喰らわないように見張りさえしっかりしていれば)落とされない戦闘機」として陸軍の最優秀戦闘機として位置づける者も少なくなかった。一式戦は陸軍機と言う性質上、零戦に比べ多くの爆弾を搭載でき、攻撃機の代用としても使用された事も必要とされた理由と思われる。ただし大型爆弾を搭載した場合、飛行性能は大幅に低下し、また脚部の強度が不十分であるため離着陸に注意が必要であった。 結局、陸軍が一式戦を量産し続けたのは、他の機体に比べ信頼性と実用性が高く戦力として数えることのできた存在であったためであり、その判断は当時の状況からすれば正しかったと言える。
[編集] 各種形式
- 一型
- ハ二五を装備した最初の生産型。武装は試作型や極初期量産型は7.7㎜機関銃2挺だが、後に7.7㎜機関銃1挺+12.7mm機関砲1門に強化。生産当初から7.7mm弾対応の自動防漏式燃料タンクを装備。
- 二型
- 一型より機体構造が強化され、エンジンをハ一一五に換装、主翼を30cmずつ短くし、プロペラも2翅から3翅に変更している。武装は12.7mm機関砲2門に、自動防漏式燃料タンクも12.7mm弾対応に強化された他、途中から操縦席後方に12.7mm弾対応の防弾板を追加。最も多く生産された型で、時期により機首の形状や冷却器・排気管の形式等が異なる。
- 三型(甲/乙)
- エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ一一五-二に換装した最終生産型。武装や防弾は二型と同じ。中島は試作のみで、生産は立川のみで行われた。武装を20mm機関砲2挺に強化した乙は試作のみ。三型(二型後期含む)になると、当初の『軽戦』のイメージが薄れ、(欧米機程では無いにせよ)かなり無理がきく機体になっていたとされる。
- 四型
- エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ一一二-二(海軍の金星六二型とほぼ同じ)に換装し、機体の一部を木製化した機体。計画のみ。
[編集] 一式戦と零戦
一式戦は海軍の零戦と比較され、その武装の貧弱さ、速度性能などから零戦に劣ると評価されることが多い。しかし、アメリカ軍が零戦三二型と一式戦二型の捕獲機を用いて行った調査では、最高速度については一式戦が僅かに遅いものの、加速力や上昇力は零戦を上回る(最高速度と上昇力については、日本側のカタログデータでもほぼ同じ傾向が見られる)とされており、飛行第六十四戦隊や飛行実験部で活躍した黒江保彦少佐の様な一式戦の優位を活かせる熟練搭乗員が操っていれば、大戦後半でも低空戦闘でP-51等の米英空軍新鋭戦闘機に対し勝利を納めることも不可能ではなかった。
武装については、当初から20mm機銃2挺を装備していたのみならず、後に三式13.2mm機銃(これもブローニングM2の国産型だが、陸軍とは口径や使用弾薬等が異なる)1~3挺を追加して更なる武装強化を行った零戦に対し、一式戦はほぼ最初から最後までホ一〇三 12.7mm機関砲2門のみで戦っており、武装の面では零戦の後塵を拝していたのは明らかである。但し、上記した様に、一式戦の弱武装には大型爆撃機の迎撃を考慮しないという設計思想が強く影響しており、大型爆撃機の迎撃が開発目的の一つだった零戦とは事情が大きく異なる。
その一方、一式戦は一型から自動防漏式燃料タンクが装備されていたのみならず、二型ではより強固な自動防漏式燃料タンクが装備された他、生産途中から操縦席後方(上半身保護用)に防弾板が追加されている。これらの防弾装備は敵味方の双方から有効性が認められている。
一方、一見の仕様には出てこない装備、航空用無線機は、この当時の日本製品は全般的に性能・信頼性共にかなり低いものであった(導線を紙で巻いていた為に絶縁が不充分であり、短絡や漏電が頻発した事が原因とされる)が、「まったく役に立たなかった」と酷評される海軍のそれに比べると、陸軍のものは取りあえず空戦域内同士の通信に齟齬をきたさない程度の性能は持ちえていたようである。この点では、隼のほうが優位にあったと思われる。 これに関しては、加藤建夫戦隊長の功績も大きいと言われる。彼は隼の性能向上に非常に熱心に取り組み、無線機についても、使わなければ向上もないとの考えから不自由をしのんで使い続け、改良に努めた。「どうせ聞こえないのだから」と、取り外して少しでも軽くしようとした部下を激しく叱り飛ばした事もあったという。空中での無線通話が上手くいった時は非常に機嫌が良かった、と夫人は後に回想している。 これら電子装備は陸軍が日本電気、海軍が日本無線と癒着していた為、相互に技術交換が行われることは大戦末期までなかった。
航続距離は、要求性能の違いから、零戦の方が1.5倍ほど長くなっているが、初期の一式戦は燃料の火災から人命を 守る目的で、胴体内に燃料タンクを設置していなかった。後に零戦に倣って同体内にも燃料タンクを増設してからは、両者の航続距離は殆ど同じになった。(共に増槽タンクなしで1700km前後)
とは言え、マクロ的に見れば一式戦と零戦は「エンジン出力の不足を徹底した軽量化で補う」という似たような設計思想の元で開発された、ほぼ同じエンジンと機体規模を持つ同世代の戦闘機である。そのためか、開戦直前に行き過ぎた軽量化による機体強度の不足のため発生した空中分解事故の対策として、急遽生産中の機体と既配備機に補強が行われたり、エンジン・新型機関砲(機銃)の不調や不備に悩まされるなど、似たような時期に似たような問題を抱えている。
[編集] 海外使用国
一式戦は最も多く日本以外の軍隊で運用された日本製戦闘機であるといえよう。大戦中には「友好国」であった満州国軍やタイ王国空軍に供与されたが、満州国では米軍の爆撃機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイでも大戦中の実戦参加の他、戦後も数年間、アメリカ製の戦闘機に代替されるまで使用されていた。また、戦後はフランス軍、インドネシア軍、朝鮮民主主義人民共和国軍、中華人民共和国軍などでも使用されている。フランス空軍は第一次インドシナ戦争において二つの部隊で一式戦闘機二型を対ゲリラ戦に投入、インドネシアでも二型を対英・対蘭独立戦争において実戦投入している。また、中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国では、戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機に代替されるまで使用された。これ以前に、中国では共産党軍が国共内戦において(降伏した関東軍第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊の指導の下に)使用。一方の中華民国の国籍識別票を付けた機体も複数見られるが、アメリカ合衆国からの全面的な支援を受けていた国民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 軍事航空スタブ | 日本の戦闘機 | 大日本帝国陸軍航空機