二階堂擁立構想
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二階堂擁立構想(にかいどうようりつこうそう)とは、1984年、自由民主党総裁任期満了に伴う中曽根康弘総裁の再選を阻止するため、鈴木善幸前首相・福田赳夫元首相らが、野党も巻き込んで田中派大番頭の二階堂進自由民主党副総裁を擁立しようとした事件である。
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[編集] 事件の背景
- 1984年11月におこなわれる自由民主党総裁選挙に対し、高い国民支持率を背景に、中曽根は早くから再選への意欲を示していた。
- 一方、中曽根内閣はその成立当初より、田中派の影響を色濃く受けて、「直角内閣」、「田中曽根内閣」などと呼ばれていたため、鈴木・福田・河本派ら非主流派はこれに不満を持っていた。さらにこの年、田中派の二階堂進が党副総裁に起用されたことで、非主流派の不満はますます高まりを見せ、宮沢喜一(鈴木派)、安倍晋太郎(福田派)、河本敏夫(河本派)らが再選阻止の構えを見せた。
- しかし、党内最大派閥を率いる田中角栄元首相が中曽根支持の方向にまわり、一般には、中曽根首相の再選は堅いと見られた。
[編集] 長老組の思惑
- そんな中、1984年10月26日、鈴木は田中邸を訪れ、次期総裁公選で二階堂を擁立することを提案した。
- 田中派は党内最大派閥でありながら、田中自身が政権回復の望みを捨てなかったため、竹下登らニューリーダーを擁しながら、田中内閣以後、総裁候補を出せない派閥であった。こうした不満を逆手に、鈴木は二階堂を総裁として田中と中曽根に頚木を打つ「王手飛車取り」を狙った。
- 鈴木の狙いは、田中と中曽根の間を分断し、二階堂暫定政権の後、自派の宮沢を総裁にすることにあったと言われ、余力を残して譲ったという認識の中で中曽根の「私が登板した時の日米関係は9回2アウト満塁だった」などとあたかも前任者が無能であったかのような鈴木の感情を逆なでする度々の発言や田中・中曽根両派主導の党運営に不満を持っていた。福田や三木武夫元首相らもこれに同調した。さらに、本会議の首班指名において、野党の公明党・竹入義勝委員長、民社党・佐々木良作委員長との連携・連立を視野に入れた工作もあり、四面楚歌の中、中曽根再選は危ういかと思われた。
[編集] 田中の反対
- この企ては、(1)「自派から自分以外の総裁候補を許さない」田中自身の強い反対に加え、(2)竹下の後見人を任じる金丸信ら、田中派幹部が反対に回ったこと、(3)鈴木・福田両派内でも慎重論が大勢を占めたため挫折し、さらに終盤でこの工作が報道され、国民周知の事実となった。露見した謀略は、最早、失敗である。
- 自民党両院議員総会に先立ち、10月28日に行われた最高顧問会議では、福田、二階堂らから中曽根批判が噴出、最後に中曽根が党風刷新・党内融和を約束し、ようやく了承されるという一幕もあったが、結局、中曽根が話し合いで自民党総裁再選され、11月1日第二次中曽根改造内閣が発足した。
[編集] 事件の影響
- この事件により、自民党の長老政治は終わりを告げる。それまで党内で多大な発言力を持っていた、福田・鈴木・三木ら首相経験者を中心とする長老は、この計画失敗により発言力を失っていき、派閥の代替わりを促すことになった。
- 同時に、鉄の結束を誇っていた田中派の綻び、ひいては、田中の支配力に陰りが生じつつあることを示した。田中の最大の忠臣・二階堂が、総裁公選に意欲を示したことは、総裁候補を擁立できない田中派内部の不満を示すものでもあり、中曽根再選後に行われた内閣改造・党役員改選では、田中派は中曽根再選の主力となったにもかかわらず、閣僚増員の要求は容れられず、改造前と同じ6ポストにとどまった。また、幹事長も田中の推した小沢辰男ではなく火消しに功績のあった金丸が選ばれた。しかし金丸が推した入閣候補者、羽田、小沢などはいずれも入閣することなく閣僚についたのは全て田中の推した入閣候補者であったことは当時の力関係がまだ圧倒的に田中に分があったことを示している。こうした、軋轢は、翌年、竹下が創政会を旗揚げすることで爆発し、創政会旗あげ直後、田中は脳梗塞で倒れ、田中支配は終焉を迎えた。
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