河本敏夫
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河本敏夫(こうもと としお 1911年(明治44年)6月22日 - 2001年(平成13年)5月24日)は、日本の政治家、実業家。新政策研究会(河本派)元会長、三光汽船元オーナー。「世界のタンカー王」 「日本のオナシス」と呼ばれ、三光汽船を世界最大の海運会社に育て上げる。一時は株式時価総額が新日本製鉄を抜き日本一になった。政界きっての政策通、経済通として知られ、「合理主義者」・「反骨の人」・「笑わん殿下」と称される。しかし、昭和60年に海運不況の煽りを受け、三光汽船は倒産。
1949年に衆議院議員に初当選以来、連続17回当選。この間、通産大臣、郵政大臣、経済企画庁長官、自民党の政務調査会長など、党、内閣の要職を歴任。
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[編集] 実業家・政治家としての歩み
- 1911年6月22日 兵庫県揖保郡神部村那波野町(現・相生市那波野)にて出生
- 1928年4月 姫路高等学校入学
- 1929年 秋、姫路高等学校中退
- 1931年 日本大学法学部入学
- 1934年8月31日 吉田市ノ助により三光海運設立。所有船1隻
- 1935年2月 所有船2隻に
- 1936年4月 日本大学卒業、三光海運経営に参画
- 1937年7月 三光海運社長就任。日華事変勃発
- 1938年4月 社名を三光汽船に改称。12月にかけて4隻の新造船。
- 1940年11月 中田造船所経営引受
- 1941年2月 太平洋戦争開始。所有船18隻(2万1千重量トン)小型船主で日本最大。
- 1943年9月 中田造船所を三光造船所と改称し社長就任。岡庭博三光汽船入社。
- 1945年8月 終戦。三光汽船の戦争被害40隻(5万8千重量トン)沈没、犠牲者300人
- 1949年1月 衆議院議員初当選、以降連続17回当選。
- 1958年6月 初の政務次官就任。このころ三光汽船所有船13隻(13万7千重量トン)
- 1960年 初の鉄鉱石専用船建造
- 1961年7月 海運再建二法施行
- 1964年1月 初のスーパータンカー(8万重量トン)竣工
- 4月 海運集約体制スタート。三光汽船は不参加。
- 1966年3月 初の大型鉱・ばら・油兼用船(9万重量トン)竣工
- 1968年3月 売上初の100億円台乗せ。運航船腹100万重量トン突破
- 5月 利子補給金完済
- 11月 郵政大臣として初入閣(佐藤内閣45・1まで、この間三光汽船社長退任)
- 1969年 本社機能東京に
- 1970年4月 初のVLCC(22万重量トン)竣工
- 1971年3月 運航船腹100隻突破、500万重量トン乗せ
- 12月 ジャパンライン株7千5百万株(21%)取得
- 1972年 ジャパンライン株買占め表面化
- 1973年4月 ジャパンラインと和解
- 11月 第一次石油ショック
- 1974年3月 売上初の1000億円台乗せ、経常利益269億円で最高。
- 1975年3月 売上2000億円突破、年16円配当
- 1976年 ロッキード事件
- 1977年3月 運航船腹316隻、2千5百2十万重量トンで最高
- 11月 2度目の通産相就任(福田内閣)
- 1978年3月 52年度決算、81億円の赤字転落
- 1980年3月 54年度決算、52億円の黒字浮上
- 1981年6月 岡庭、会長就任、社長は甥の吉田寛
- 12月 鈴木改造内閣 経済企画庁長官留任
- 1982年3月 56年度決算、再び赤字転落(71億円)、無配
- 1983年3月 小型ばら積み貨物船大量建造計画発表(14隻)
- 1984年4月 第一次再建計画スタート。金融支援とタンカー分離が骨子
- 1985年1月 山下運輸相、三光汽船幹部から非公式に事情聴取
- 下旬、大蔵省が主力三行から事情聴取
- 25日、三光株100円割れ
- 大和銀行安倍川頭取、一月以降、河本と頻繁に接触
- 2月1日、三光株63円の安値。経営危機説流布
- 3月 第二次再建計画策定。主力三行に742億円の追加融資要請。運輸省にOBの派遣を
- 株価130円台持ち直す
- 4月 東海銀、追加融資拒否。長銀も同調「金融支援」に限界
- 下旬、安倍川大和銀頭取が酒井長銀頭取、加藤東海銀頭取と個別会談
- 5月 河本、山下運輸相とともに主力三行に支援要請。三行は政府の海運業界救済策を要望、東海銀首脳「タンカー買上機関が必須」と強調
- 6月3日 59年度決算は累積赤字683億円と史上最悪、債務超過スレスレ
- 株価100円割れ
- 28日、秋篠社長代行、社長就任。大和銀は専務を副社長に派遣。運輸相OBは入社せず
- 7月23日、主力三行副頭取が大和銀東京本部で会合「8月以降の追加融資打ち切り」内定
- 31日、59年度連結決算債務超過転落
- 8月7日、運輸省、海運構造不況対策内定。タンカー買上機関は見送り
- 下旬、大蔵省が主力三行から事情聴取
[編集] 生い立ち
1911年、兵庫県揖保郡神部村那波野(現在の相生市那波野)で神部村の村長や小学校長をつとめた地元の名士、父・光(あきら)、母・たつの長男として生まれた。子供のころは、相生の海岸に行っては、現在の石川島播磨重工業の工場となっている造船所を眺めて船に親しんでいた。地元の神部小学校を経て竜野中学校に5番で入学。同中学は当時の兵庫県では神戸一中などと並ぶ名門校だった。成績は極めて優秀で三年になると平均95点で、級長に推された。中学4年で姫路高校文科甲類にパスし、1928年に旧制姫路高校(神戸大学の前身校)にトップの成績で入学する。同級生に後の神戸市長の宮崎辰雄、一級上に哲学者三木清の弟の三木繁、一級下には後の三光汽船会長の岡庭博らがいた。特高警察による思想取締りが厳しさを増していた時期の高校2年の秋、姫路歩兵隊の射撃演習中、昼食をとっている際に乗り込んでいき、戦争反対演説をした。当時クラスの総代ををしていたので戦争反対演説者の身元はすぐにばれ同校を放校処分になった。この時に同級生の宮崎辰雄らが先頭にたって学校側に決議を突きつけたところ、その宮崎も放校処分になってしまった。その後家を飛び出し、奈良の山奥で土工をしたり、大阪で職工など1年半ほど職を転々としたが、やはり大学へ入って勉強しなければならないと考え、当時村長をしていた父のもとへかえり頭を下げて進学を頼んだが高校から全国の学校に連絡が入っていて簡単に入学できそうもないということで郷土の衆議院議員の原惣兵衛のつてで日本大学法学部に入学する。原は河本を書生として自邸に住むことを認め、大学卒業まで親代わりとなって面倒をみた。卒業後、三光海運に入社するが、姫路高校放校処分の影響で、大学を出てからもまともに就職ができなかった。会社に入ってからの1年目は、日本海運集会所が募集した「世界海運戦とわが国トランパーの進路」という懸賞論文に応募するため、大阪・中之島の図書館に数ヶ月間通いつめ、海運の勉強に励んだ。100編近い応募の中から、河本の論文は3等に入選した。こうした経験を経て、河本は26歳の若さで三光海運の社長に就任した。昭和12年7月のことである。
[編集] 初当選
三光汽船株が上場された昭和24年に河本は、政界入りした。日大入学時に世話になった恩師・原惣兵衛は、終戦後、公職を追放されていたが、河本はその地盤を引き継ぐ形で同年1月の戦後3回目の総選挙に、保守系野党の民主党候補として兵庫4区から立候補、初挑戦にしてトップ当選を果たした。37歳だった。同じ選挙で初当選した民主党議員は23人いたが、このうち森山欽司、大西正男は後に河本派の幹部となった。当時は保守政党の離合集散が繰り返されていたが、25年4月の国民民主党結成で、河本はその後の政治行動をともにする三木武夫と出会う。27年2月には改進党が結成され、総裁重光葵、幹事長三木武夫の下で2度目の選挙戦に突入した。2位当選だった。3度目の選挙は28年の「バカヤロー解散」。このとき、河本は次点との差がわずか267票というきわどい得票で当選した。しかも、次点で落選したのは同じ改進党の現職幹事長である清瀬一郎だった。昭和29年、吉田時代が終わりを告げ、総裁鳩山一郎、副総裁重光葵、幹事長岸信介という布陣で日本民主党が結成された。鳩山内閣ができると三木武夫は運輸相として入閣する。河本にとって初めての与党経験だった。30年10月の自由党と保守合同で、現在の自由民主党が誕生するが、河本もこれに参加した。ただ政務次官になったのは遅く、33年の岸内閣、三木武夫経済企画庁長官の下で起用されたのが初めてだった。その後も政界での活動は地味で、もっぱら三光汽船の経営に力を注いでいた。
[編集] 初入閣
1968年に佐藤栄作内閣の郵政大臣として初入閣した後、政界の玄人筋からは、三木派の資金調達役(三木派の大番頭)として知られていたが、存在が一躍注目されるようになったのは三木内閣で通産大臣に就任してからである。福田赳夫内閣でも通産相、鈴木善幸、中曽根康弘両内閣で経済企画庁長官などを歴任した。自民党でも1976年、1978年の2度にわたって政調会長を務めた。自民党屈指の政策通、経済通として知られ、三木に批判的な立場だった大平正芳や後藤田正晴にも「一角の人物」と一目置かれた。政策としては積極財政論を唱えることが多かった。
[編集] 出遅れた総裁候補
「総裁候補・河本」はスタートから2つの大きなハンディを背負っていた。第一に53年、総裁レースに初めて挑戦した時、すでに67歳という「出遅れた総裁候補」であった。故大平正芳の2歳下、ライバルの中曽根康弘の7つ上。「三角大福」の既成実力者と安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一らニューリーダーの間に位置する中二階的存在だった。したがって政治的立場は必然的に不安定になる。特に同じような立場にあった中曽根が首相の座に就いてからは、ニューリーダーの間に「中二階の総裁は2人もいらない」との思惑が強まった。第二のハンディは、党内基盤が、保守傍流の小派閥、三木派であった点である。「数の理論」が支配する政界では、決定的と言える弱点だった。それまで、三光汽船を世界最大の海運会社に育て上げることに傾注し、他の実力者のように派内に堂々と人脈を築き、領袖として浮上するコースを歩まなかった。予備選を通じてその政治力は除々に高まったが、抜本的な打開は難しかった。
1978年の自民党総裁予備選挙に初めて出馬するが、大平、福田、中曽根に続く4位で敗れた。
1980年には三木派が解散されたことに伴い、その大部分を集めて河本派を旗揚げした。三木派からの禅譲という形をとらなかったのは、三木の影を排除しないと、他派からの支援が受けにくいという事情があったためである。
河本は、自民党の実力者で70年代の政界を主導した「三角大福」に次ぐ実力者に数えられ、何度も総裁候補に名前が挙がったほどである。1982年、自民党総裁予備選挙に出馬し当初有力と見られたが、田中派の集票マシーンの支援を受けた中曽根に過半数を取られ次点となり、3・4位の安倍晋太郎・中川一郎ともども国会議員による本選挙への立候補権を辞退する。
中曽根内閣で国務大臣在任中の1985年、事実上のオーナーだった三光汽船が海運不況のあおりを受け、倒産。当時は戦後最大の倒産といわれ、責任を取って国務相を辞任した。三光汽船の倒産は、政治家としての河本の評価にも影響を与え、田中角栄は「自分の会社をつぶすような奴に一国の経営は任せられない」と評価していた。
リクルート事件などで竹下登、宇野宗佑内閣が退陣した1989年は河本にとって、政権獲得の最大の好機とされたが、党内の若手待望論を受けて、河本派のホープ・海部俊樹を総裁に擁立し、その後ろ盾になるなど派閥領袖の地位を保ちながら次世代の育成に尽力したが、ついに、悲願だった総理総裁の座に就くことはなかった。
1993年の総選挙後衆議院議長候補として名前が挙がるが、自民党が下野したために実現しなかった。
1996年秋の総選挙直前、健康上の理由から47年間務めた衆議院議員を引退。当時、参議院議員だった三男の河本三郎を後継にした。その後も、旧河本派名誉会長を務めていたが、2001年5月24日、心不全のため死去。89歳だった。7月18日に相生市民会館にて自由民主党・河本家合同葬が開かれ、葬儀委員長・小泉純一郎自民党総裁、喪主・河本三郎がつとめた。
その人となりは、寡黙で謹厳、滅多に笑顔を見せなかったことから、タイの王族ワンワイタヤーコーン・ワラワンにちなんだとされる「笑わん殿下」のあだ名で知られた。また、出生地の相生駅が姫路から近距離にもかかわらず山陽新幹線停車駅となったのは、河本の我田引鉄によるものと評されたことがある。
[編集] 栄典
- 1996年:勲一等旭日大綬章
[編集] 関係する人物
[編集] 参考文献
- 「河本敏夫・全人像」著者・中村慶一郎 行政問題研究所発行
- 「座礁―ドキュメント三光汽船」編者・日本経済新聞特別取材班 日本経済新聞社発行
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