今井宗久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今井 宗久(いまい そうきゅう、1520年(永正17年) - 1593年8月31日(文禄2年8月5日))は、安土桃山時代の堺の商人、茶人である。子に今井宗薫。家系は尼子氏の一族とも。千利休、津田宗及と共に茶の「三大宗匠」と称せられた。名は彦右衛門、兼員、号は昨夢斎。屋号は納屋。
大和国(奈良県)今井の出身。祖は近江佐々木氏の末裔で近江国高島郡の今井氏という。堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学ぶ。やがて紹鴎の女婿となり、茶器などを譲り受けたという。1554年(天文23年)には大徳寺塔頭大僊院に百七十貫を寄進。この頃すでに財を成し、新興の豪商として台頭していた。
1568年(永禄11年)10月、上洛した織田信長に摂津西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鴎茄子などを献上。いち早く信長の知己を得て、足利義昭からは大蔵卿法印の位を授かる。同年、信長が堺に対して矢銭二万貫を課した際、会合衆たちが三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せたのに対し、宗久はこの要求を受け入れるよう信長と会合衆の仲介を行い、これに成功する。
これ以降、宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得る。1569年(永禄12年)には、堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得て、1570年(元亀元年)には長谷川宗仁とともに但馬銀山を支配する。また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めた。
信長の死後には羽柴秀吉(豊臣秀吉)にも仕え、堺の万台屋宗安、住吉屋宗無とともに秀吉の御咄衆を務めた。また茶頭として1587年(天正15)に秀吉が開催した北野大茶会に協力する。しかし、秀吉は宗久よりも新興の薬種商・小西隆佐や千利休らを重用したため、信長時代に浴したほどの地位ではなかったと考えられている。1593年(文禄2年)に死去、享年73。著作に茶会記録の『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』など。