仙台空襲
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[編集] 概要
仙台空襲(せんだいくうしゅう)とは、太平洋戦争末期の1945年7月10日、アメリカ軍爆撃機B-29によって行われた仙台市中心部への戦略爆撃である。
明治時代以降、東北地方の中心都市として陸軍の様々な施設が置かれていた仙台は、太平洋戦争末期に、アメリカ軍から度々、空襲を受けていた。宮城県内各地でも、沿岸部の港湾施設や都市、および内陸部の都市や鉱山施設が爆撃を受けていた。
1945年(昭和20年)7月9日、アメリカ軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、午後4時3分(日本時間)B-29爆撃機131機がテニアン西飛行場を離陸し出撃した。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達した。
7月10日午前0時3分(空襲警報発令は午前0時5分)、高度約10,000フィート(約3,000メートル)より、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲した。焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化した。死者1066名(仙台市に籍を置き届出のあった人数、1973(昭和48)年最終調べ)、被災人口57,321人(人口の約26%)、被災戸数11.933戸、被災面積5平方キロメートル(市街地の17%)と、地方空襲の中では、北日本の都市で最大規模のものの一つとなった。
市街地の他、仙台城二の丸にあった第二師団も被害を受けた。一方、陸軍省苦竹造兵廠など、苦竹にあった軍需工場地区(現在の陸上自衛隊仙台駐屯地)は空襲を受けなかった。
一方、アメリカ軍の損失は滑走路で炎上した1機(全乗員脱出)のみであった。しかし、東北軍管区司令部は「撃墜5 撃破12」という過大な戦果を発表した。
[編集] 投下焼夷弾
米軍資料によると仙台空襲で投下された焼夷弾は
- M-47
- 100ポンド膠化ガソリン爆弾(大型油脂焼夷弾)
- M-69
- 500ポンド集束焼夷弾(M-69小型油脂焼夷弾2.7kg48個入り)
- M-17
- 500ポンドエレクトロン集束焼夷弾(マグネシウム、テルミット小型焼夷弾1.8kg48個入り)
である。
焼夷弾の総投下量は12,960個、917.6トンに及ぶ。そのうち2,155個が集束焼夷弾(M-69、M-17)だった。従って小型焼夷弾の個数は2,155×48=103,440個、大型焼夷弾の個数は12,960-2,155=10,805となり、計114,245個の焼夷弾が投下されたことになる。
[編集] 主な被災
- 瑞鳳殿
- 仙台城大手門
- 護国神社
- 亀岡八幡宮社殿
- 東北帝国大学
- 養賢堂講堂
- 宮城県図書館
- 宮城県仙台第二中学校
- 仙台市立仙台中学校
- 常盤木学園
- 宮城県修養学園
- 北五番町国民学校
- 東二番町国民学校
- 立町国民学校
- 西多賀国民学校
[編集] その他の宮城県の空襲
7月10日の仙台空襲以外にも仙台市や宮城県は空襲に遭っている。そのため仙台市戦災復興記念館では仙台空襲を仙台大空襲とも呼んでいる。宮城県の受けた空襲並びに爆撃機の飛来記録を以下に記す。
- 1944年12月29日5時42分、塩釜市にB-291機が焼夷弾約300個を投下する。この機体は岩手県の偵察の帰りに塩釜を爆撃したものと考えられている。消失家屋数440戸、被災者2,142名、死傷者3名。これが宮城県で最初の空襲となる。
- 1945年3月10日、東京大空襲の日に東京以外の日本各地に少数機による分散空襲が行われた。これは日本側の防衛体制分断を図るためと考えられている。宮城県ではB-293機が蔵王連峰の不忘岳に激突墜落し34名の死体が収容されている。またB-292機が霞の目飛行場付近に焼夷弾を投下し2戸が全焼している。
- 5月25日、仙台空襲のためのB-29による偵察飛行が行われ、上空から仙台市内の航空写真が撮影された。
- 7月5日、B-292機が芦の口に爆弾3個を投下した。
- 7月10日、仙台大空襲
- 7月12日、B-291機が仙台近郊に焼夷弾36個を投下した。
- 7月13日、艦載機が飛来する。17日、艦載機が仙台飛行場を銃爆撃する。
- 7月25日、B-291機が仙台上空を北上する。
- 8月9、10日、日本各地が艦載機数百機で銃爆撃される。宮城県の銃爆撃地は以下の通り。
- 苦竹陸軍造兵廠、霞の目飛行場
- 石巻 中瀬の村上造船所 犠牲者6名
- 女川 軍艦・運搬船20隻が撃沈される。駅前の家屋も被害を受ける。
- 矢本 飛行場軍機の大半が撃破される
- 多賀城海軍工廠、岩沼、船岡、亘理、小牛田、気仙沼
[編集] 戦災復興事業
仙台市電は市中心部の多くの路線で被害を受けたが、車庫にあった車両に被害はなく、翌11日から折り返し運転を行い、戦災復興の一役を担った。終戦後の8月20日に全線復旧した。
仙台市の復興事業については宮城県が戦後一早く復興計画を練っていた。ところが政府が1945年11月に「戦災復興計画の基本方針」を閣議決定し、1946年2月に「戦災復興事業法」を制定し全国被災都市162中の115都市を国庫補助復興事業都市に指定する。この事により仙台市の復興事業を仙台市自身が行うことに決まり、県が行っていた事業計画などを引き継ぎ作業に入った。
1946年4月に」市議会議員全員44名と学識経験者20名の総員64名から構成される「仙台市戦災復興委員会」が設けられた。更にその委員の中から23名が「復興常任委員」に選出され、計画完遂のために常時参画できるようになった。5月に復興事業の実施機関として復興局が新設され、都市計画街路、公園緑地は、復興委員会で検討の結果8月にまとまった。この最終案は11月に戦災復興院の許可を得て決定し、具体的な復興事業がスタートした。
復興計画は、当初戦災を受けた仙台市の中心部、川内地区、米ヶ袋地区を合わせて423.5haを土地区画整理として行う計画だった。しかし川内地区が米軍に接収された他、仙台駅の東側を新寺小路都市改造事業に移すなどの変更があり、291.1haについて事業が施行された。
手法土地区画整理事業として行う、区域内の地権者25%の土地の提供を受け(25%の減歩)区域内の道路、公園緑地を整備する事業だった。1961年3月に15年を要してほぼ工事関係が完了した。1977年10月に30年を要して換地などの生産事務の精算金などの徴収、支払いの一部を除き、全て完了した。これによって全国の復興事業を実施した102市の中で屈指の成果を上げて戦災事業は完了し街の面目が一新された。
総事業費 | 12億7千万円(国・県補助3億9千万円、市債8億8千万円) |
施行面積 | 291.1ha |
都市計画道路 19路線 | 18,500m 2.5倍(面積) 整理前 336,000m2 整理後 825,000m2 |
都市計画公園 14箇所 | 9倍 整理前 22,800m2 整理後 181,800m2 |
公共用地 | 1,006,800m2 3倍(面積) 整理前 22,800m2 整理後 181,800m2 |
建物の移転 | 3,170件(うち堅牢建物11件) |
- 無電柱
都市部の東一番町通、東二番町通、青葉通、広瀬通、定禅寺通錦町線、長町堤町線6路線を地下配線化し、無電柱化地帯にする。(建設大臣表彰を受ける)
区域内の寺院を北山霊園に移転し街の中から墓碑を無くした。
- 学校の移転
常盤木学院、育英学院、仙台高校、仙台商業高校を区域外に移転する。
[編集] 外部リンク
- 仙台市戦災復興記念館
- 全国主要都市戦災概況図(1945年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために第一復員省資料課が作成)
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