伊東長実
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伊東 長実(いとう ながざね 1560年(永禄3年) - 1629年3月11日(寛永6年2月17日))は織田信長家臣、尾張国岩倉の国人であった伊東長久の子。名は一時「長次」。丹後守。初代備中国岡田藩主。子に長直、長昌。妻は神子田正治の娘。日向国の伊東氏と遠祖を同じとする。
[編集] 略歴
天正元年(1573年)の小谷城攻めから父長久と共に羽柴秀吉配下につけられ、大母衣衆に抜擢される。播磨国別所氏攻めで功績を残して信長より脇差を与えられたとの記録が残る。その後も秀吉配下として各地を転戦し、黄母衣衆24人の一人に列せられた。
1590年(天正18年)の小田原征伐にも従軍し、山中城攻めの際には一番乗りを果たすなど活躍し、戦後備中国川辺に一万石を与えられ大名となった。朝鮮出兵では肥前名護屋に陣した。
1600年(慶長5年)6月16日、上杉征伐に向かうため下野国小山にいた徳川家康にいち早く石田三成の挙兵を知らせる功績を残す。この功績で後に大坂の陣では豊臣方として入城し、大坂七手組頭の一人として家康に敵対するものの、青木一重と共に大名として存続することを許された。
ほとんどの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中、この処置は異例でありスパイ的な活動を行っていたのではないかとも考えられている。
晩年に剃髪し宗徳と号した。子孫は明治まで岡田藩主を務め、華族に列せられた。
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