伊良子清白
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伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年10月4日 - 1946年1月10日)は、日本の詩人。名はすずしろとも。本名、暉造(てるぞう)。
医業のかたわら詩を書き、河井醉茗、横瀬夜雨と並ぶ文庫派の代表的詩人。詩集は『孔雀船』(1906年)。
[編集] 生涯
1877年10月4日、鳥取県八頭郡八上村大字曳田(現在の河原町曳田)に生れた。父は美作藩の典医である政治、母は恒(つね)といった。清白が2歳になる1ヶ月前の9月1日に母が死亡。のち父に伴われて岩美郡を経て津市に転居。13歳で、父が戸主を辞したために伊良子家の戸主となる。養成小学校ののち津尋常中学校に入学。ここでは「和美会雑誌」を発行して和歌を学び、また詩作をする。
1894年、京都に出て京都府立医学校に入学、1899年に卒業する。この間に「少年文庫」(のち「文庫」)に詩や和歌を載せ、また河井醉茗と会った。卒業後はしばらく父の医業を助け、1900年に東京に出て横瀬夜雨を訪ねた。赤十字病院などに勤めながら新詩社に入り、機関誌「明星」の編集に加わる。1901年筆名をすずしろから清白に改めたが、翌年からは東京外国語大学独逸語学科に入り(翌年中退)ドイツ語を学ぶなど、上京後は医業に勤めながら忙しい日々を送った。1906年に唯一の詩集『孔雀船』を刊行。こののち東京を離れ、詩作から遠ざかることになる。
同年4月に島根県浜田の病院に招かれ、ついで大分、台湾島(在住8年)で病院医師などを勤め、1918年に帰国。1922年から三重県鳥羽小浜に開業する。このころ『孔雀船』が日夏耿之介らに評価されるようになり、1929年に再刊された。1928年に生誕50年祝賀会のために上京し出席、詩壇に復帰した。晩年は短歌雑誌「白鳥」を刊行しその選評を書き、自ら作った短歌も発表していた。1946年1月10日、往診の途中に自転車で転倒し、その夜脳出血のため没した。1968年、鳥羽市小浜に詩碑が造られ、詩「安乗の稚児」が彫られている。このほか大王町、大宮町にも記念碑がある。
[編集] 著作
- 全集
- 伊良子清白全集(2003年6月、岩波書店、全2巻)
- 詩集
- 孔雀船(1906年5月、左久良書房)