佐々木七恵
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佐々木 七恵(ささき ななえ、本名:永田 七恵、1956年2月8日 - )は、昭和時代の女子マラソン選手。岩手県大船渡市出身。初期の日本の女子マラソンを代表する選手の一人。
[編集] 経歴
5男2女の7人兄弟の末娘として生まれたことから七恵と命名される。中学時代はバレーボール部に所属し、岩手県立住田高等学校時代から兄の影響で陸上を始める。日本体育大学時代までは中距離の選手で、大学卒業後マラソンに進む。東京国際女子マラソンには第1回から出場。徐々に記録を伸ばし、日本の第一人者と言われるようになる。当時佐々木は岩手県で県立学校の教員をしていたが、さらなる記録向上をめざし学休期に上京しては、瀬古利彦の師である中村清の指導を受けるようになる。その甲斐あって、1981年4月のボストンマラソンでは 2:40:56 の日本最高記録を樹立した。しかし、その直後日本で出場したトラックレースで、成田高校の在学生であった増田明美に何度も水をあけられて衝撃を受ける。これをきっかけに本格的に陸上に取り組む決意を固め、教員を辞職して中村のいるヱスビー食品陸上部に入部した。
中村の指導は厳しいものであったが、まもなく成果が現れる。1982年5月のスポニチ陸上5000mでは初めて増田を破って優勝。6月にはニュージーランドのマラソンで 2:35:00 の日本最高記録を樹立し、2月に増田に奪われた首位の座を奪い返した。
1983年11月の東京国際女子マラソンに、翌年のロサンゼルスオリンピックの女子マラソン代表をめざして出場。このレースには、9月に再び日本最高記録を出した増田もエントリーしており、マラソンでの二人の初対決が期待されたが、増田は直前に足を痛めて欠場した。佐々木は先頭に食い下がる我慢のレースからスパートをかけて優勝。国内の国際女子マラソン大会で初めての日本人優勝を飾り、代表の座をつかんだ(その後増田も大阪国際女子マラソンに出走し2位となり、二人が女子マラソン五輪代表となる)。その走り方には、同年ヒットした連続テレビ小説にちなんで「おしん走法」のあだ名が付けられた。1984年1月の全国都道府県対抗女子駅伝に岩手県チームのアンカーで出場、実に17人抜きを演じる。この記録は2007年1月、愛知県チームの2区で出場した湯田友美が29人抜きで23年振りに記録を塗り替えた(このときの2区では、17人抜き以上が湯田の他に3人いた)。
1984年8月のロサンゼルスオリンピック本番では、2:37:04のゴールタイムで順位は19位と完走(増田明美は16Km付近で途中棄権)。当時の日本女子のマラソン代表は、まだ世界との壁が厚い時代だった。オリンピック後、中村の薦めもあって(永田姓の男性と)結婚することとなり、「家庭とマラソンの二足のわらじは無理」と1985年3月の名古屋国際女子マラソンを引退レースと決める。そのレースでは 2:33:57 の自己ベストで優勝し、最後の花道を飾った。
引退後しばらくの間は陸上競技から遠ざかったが、1991年から古巣のヱスビー食品陸上部のコーチ、1996年から顧問を務める。また、1999年から2003年まで居住する神奈川県相模原市の教育委員を務めた。
現在、郷里の大船渡市では彼女の業績を称えて市民ロードレース「大船渡ポートサイド女子マラソン大会」が1988年以降毎年開催されている。
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