佐賀城
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鯱の門 | |
通称 |
佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城 |
城郭構造 |
輪郭梯郭複合式平城 |
天守構造 |
5重 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 |
鍋島氏 |
廃城年 | |
遺構 |
鯱の門及び続櫓(重要文化財)、石垣 |
位置 |
佐賀城(さがじょう)は日本の城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。
目次 |
[編集] 概要
佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城である。かつては幾重にも外堀を巡らし、城が攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていた。ゆえに「沈み城」とも呼ばれた。
明治時代初期に起こった佐賀の乱により大半の建造物は焼失し、鯱の門と続櫓のみが残っており国の重要文化財に指定されている。
現在、城跡には県庁、合同庁舎、放送局、美術館、博物館、小中高の各学校、公園など公共施設が建ち並んで佐賀県政治経済の中心地となっている。
[編集] 沿革
佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これを機に龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握った。
直茂は早くも、天正13年(1585年)には村中城改修を計画している。しかし未だ当主であった龍造寺政家の居城であり、直茂は蓮池城が居城であったため、主家に憚って計画には手を付けなかった。計画が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の、慶長7年(1602年)本丸の改修を始めてからである。直茂の計画に則り、次の藩主鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させた。内堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、5層の天守も建造された。また、元和の一国一城令でかつての居城蓮池城は破却された。
城は幾度も火災に見舞われた。特に享保11年(1726年)には大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半を焼失した。これにより御殿などが享保13年(1728年)に二の丸に完成し、藩政は二の丸を中心に行われた。更に天保6年(1835年)の火災では二の丸を焼失。これにより再び本丸再建が行われ政務は本丸に移った。現存する鯱の門・続櫓はこの再建時の天保9年(1838年)に完成したものである。なお、天守は享保の火災以後再建されていない。
明治7年(1874年)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠された。この戦闘の際に建造物の大半を失った。なお、鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。以後、佐賀城址には学校、測候所、県庁など公共施設が次々と建設された。
鯱の門と続櫓は昭和28年(1953年)佐賀県重要文化財に指定され、昭和32年(1957年)には国の重要文化財に指定された。この年、明治時代の建造物「協和館」が天守台に移築されサークル活動等に利用されていたが、平成15年(2003年)の佐賀市議会で解体されることが決定された。
平成16年(2004年)天保年間に完成した本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館が完成し現在に至っている。