鍋島勝茂
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鍋島 勝茂(なべしま かつしげ、天正8年10月28日(1580年12月4日)- 明暦3年3月24日(1657年5月7日))は江戸時代の外様大名、佐賀藩の初代藩主。鍋島直茂の嫡男。母は、龍造寺隆信の家臣石井兵部少輔常延の女陽泰院。正室は戸田勝隆の娘、継室は徳川家康の養女(岡部長盛の娘)菊姫。子に元茂、忠直、直澄、直朝、娘(上杉定勝室)、娘(松平忠房室)。
[編集] 経歴
若い頃から父に従い、朝鮮出兵にも従軍した。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍に与して伏見城攻撃などに参陣したが、関が原の戦いで西軍が敗退した後、徳川家康にいち早く謝罪し、また筑後柳川の立花宗茂、同久留米の小早川秀包を攻撃したことから本領安堵を認められた。
当時佐賀藩は、天正18年(1590年)に龍造寺政家が病弱であったため豊臣秀吉によって隠居させられ、家督そのものは政家の長男・高房が引き継いだものの年少であることから、重臣筆頭である勝茂の父直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。朝鮮出兵においても、直茂が総大将として出陣している。ところが慶長12年(1607年)、高房と政家父子が相次いで死去、勝茂は幕府公認の下後を継いで佐賀藩の初代藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。勝茂はまず龍造寺家から鍋島家へのスムーズな政権移行に従事し、龍造寺家臣団と鍋島家臣団の整理を行い、各家臣から起請文を改めて提出させ、内乱の防止に成功した。またこの間、検地を実施して35万7千石の石高があることを明らかにし、これに先立つ慶長7年(1602年)より佐賀城・蓮池城を近世城郭にふさわしい体裁を備えるべく築城(蓮池城は一国一城令のため破却)し、鍋島家統治のシンボルとした。
このように龍造寺家から鍋島家への継承は、他家の同様な例と異なりほとんど血を見ずに成功したものの、「鍋島化け猫伝説」などの説話が巷間に流れ、勝茂は歌舞伎や講談では主家を乗っ取った悪役とされてしまっている。これには、龍造寺高房が佐賀藩の実権を取り返せないことに絶望して自害したとされる(真相は不明)こと、勝茂の一子が突然死したこと、また寛永年間に龍造寺高房の子伯庵が佐賀藩の統治権の返還を執拗に幕府に願い出たことなどによる。結局幕府はその都度伯庵の訴えを却下し、最後には江戸所払いにしたうえで3代将軍徳川家光の異母弟であり閣老の会津藩主保科正之に50人扶持で永預けとした(伯庵死後、その遺児を300石にて取り立て、子孫は現在も続いている)。ただし、勝茂はこれらの件に対して、例えば一子の突然死後に半ば錯乱した父・直茂が巫女の占いを信じて家士数人を殺害するとこれを諌める書簡を江戸から送り、伯庵の訴えには穏便に処理するよう幕府に願い出たりしている。
一方で、旧家臣団と鍋島譜代の家臣団のいずれにもほとんど粛清がなかったために、石高のほとんどは家臣団への知行分となってしまい、藩主の直轄領が6万石程度しか残らず、藩政当初から財政面において苦しむこととなった。このため佐賀藩ではその後一貫して干拓など増収政策に取り組むこととなる。
のち、寛永13年(1637年)から翌年にかけての島原の乱に出陣、家臣が軍律違反を犯したために幕府に処罰された。
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