六角義治
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文14年(1545年) | |||
死没 | 慶長17年10月22日(1612年11月14日) | |||
別名 | 四郎(通称)、義弼(別名) | |||
諡号 | 鵬庵玄雅 | |||
官位 | 右衛門督 | |||
氏族 | 宇多源氏佐々木氏流六角氏 | |||
父母 | 父:六角義賢、母:畠山義総の娘 | |||
兄弟 | 六角義治、六角義定 | |||
子 | 佐々木定治 |
六角 義治(ろっかく よしはる)は、南近江の戦国大名。六角氏の当主。六角 義弼(ろっかく よしすけ)と呼ばれることもある。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
天文14年(1545年)、六角義賢の嫡男として生まれる。母は能登国の戦国大名・畠山義総の娘であるが、義賢ははじめ正室に義総の娘を迎えていたが早世したため、継室にはその妹を迎えていた。義治はその妹を生母とする男児である。ちなみに母親は天文16年(1547年)に早世している。
永禄2年(1559年)、父の義賢が隠居したため、家督を継承して当主となった。
[編集] 観音寺騒動から滅亡へ
永禄6年(1563年)、六角氏の中でも特に信望のあった重臣後藤賢豊を観音寺城内で誅殺してしまう(観音寺騒動)。これを契機として六角氏の家臣団の多くは義治の武将としての器量に疑問を抱くようになり、宿敵である浅井長政に寝返る者まで現れ始めた。この騒動で義治は一時、父と共に反発した家臣団に観音寺城を追われたが、重臣の蒲生定秀、蒲生賢秀の尽力により観音寺城に戻った。
永禄10年(1567年)4月28日、主君の権限を抑える分国法である六角氏式目に署名することを余儀なくされた。すでに六角氏当主の権威は地に堕ちていたが、この式目によりかろうじて六角氏当主が家臣団を統率することとなる。また、家督も強制的に弟の六角義定に譲らされた。
永禄11年(1568年)、織田信長が侵攻して来ると弱体化した六角氏はあっけなく敗れて滅亡し、義治は父と共に逃亡した。
[編集] その後
その後、義治は父と共に織田信長に対してゲリラ的に反抗したが、やがて甲斐の武田信玄のもとへ身を寄せて甲斐の恵林寺に潜伏していたという。しかし天正10年(1582年)に武田勝頼が織田信長によって滅ぼされると、織田軍の追跡から逃れてまたも逃亡した。
信長の死後、豊臣秀次、次いで豊臣秀吉の御伽衆として仕え、秀吉の死後は豊臣秀頼に仕え、その弓矢の師範を務めた。慶長17年(1612年)10月22日に死去。享年68。