内藤政業
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元文5年(1740年) | |||
死没 | 明和6年(1769年)? | |||
別名 | 銀一郎(幼名)、亮長(別名) | |||
諡号 | 葛山 | |||
官位 | 従五位下、播磨守 | |||
藩 | 陸奥湯長谷藩主 | |||
氏族 | 内藤氏 | |||
父母 | 父:内藤政醇、母:黒田直邦の娘 | |||
兄弟 | 内藤政業、内藤政勝 | |||
妻 | 正室なし | |||
子 | 養子:内藤貞幹 |
内藤 政業(ないとう まさのぶ)は、江戸時代の大名。陸奥湯長谷藩の第5代藩主。
元文5年(1740年)、第4代藩主・内藤政醇の長男として生まれる。寛保元年(1741年)、父の死去により2歳で後を継ぐ。宝暦5年(1755年)11月に徳川家重と謁見し、宝暦6年(1756年)12月に叙任する。しかし宝暦11年(1761年)11月14日、養子の貞幹に家督を譲って隠居した。22歳の若さで正室も子も無かったため、この若さで隠居した理由は不明。明和6年(1769年)に死去したと言われる。これも有力な没年にすぎず、正確な没年は分かっていない。文化8年(1811年)、72歳まで生存したとの説もある。墓所は神奈川県鎌倉市の光明寺。
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