冉閔
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冉 閔(ぜん びん, 生年不詳 - 352年6月1日?)は、中国五胡十六国時代の群雄の一人。魏(冉魏)の建国者であり、初代皇帝である。字は「永曾」。「棘奴」という別名も持つ。父は漢民族の冉良で、後趙の石勒らに捕らえられるが、その勇猛さを買われてその甥である石虎の養子となり、名を石瞻としていた。そのために名ははじめ、「石閔」である。
石虎旗下の武将として後趙の石虎政権を支えるが、349年に石虎が没して後継者争いが発生すると、司空の李農らと結んで石遵や石鑒らを相次いで擁立して政権を握る。だが、いずれも石閔の専横を恐れて排斥を図ったため、両者をたて続けに殺害。さらに当時、石氏政権が漢人から3万人の婦女を徴発したり財産の大半を没収するなど苛政を続けていたことへの報復として、配下の漢人武将や漢人民衆らを煽って、石虎の一族を処刑し、20万人にも及ぶ羯族や漢民族以外の民衆を虐殺。姓を冉氏に戻し、自ら鄴で帝位に就いて「魏(冉魏)」を建国した。
漢民族至上主義に基づく、漢族のみの国家であったため、異民族の勢力圏にあった華北地方においてはその勢力基盤は脆弱で、支配領域は鄴周辺のわずかな地域に限定され、また後趙の残存勢力との争いにも国力を裂かれることなり、後趙を滅ぼすことには成功するものの、建国のわずか3年後に前燕の慕容儁らにより打ち破られることになり、処刑された。
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