出石藩
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出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。
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[編集] 藩史
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、小出吉政は父の小出秀政と共に西軍に与して丹後国田辺城を攻撃したが、吉政の弟・小出秀家が東軍に属して関ヶ原本戦にて活躍した功績により戦後、徳川家康から6万石の所領を安堵された。
慶長9年(1604年)秀政の死後、小出吉政は和泉国岸和田藩に移封され、代わって出石領は吉政の嫡男・小出吉英が領した。その後、吉英は吉政の後を継いで岸和田領を継ぐことになり、出石は吉英の弟・小出吉親が継ぐこととなる。いわばこのとき、小出氏は岸和田と出石の両家に分かれたと見るべきである。
しかし元和5年(1619年)、岸和田領を継いでいた小出吉英が、5万石にて出石に移されることとなり、これに伴い弟の小出吉親は、丹波国園部へ移封され、園部藩を立藩する。結果、小出吉英は再び出石藩主になったのである。
その後、但馬出石の小出氏は藩主の早世が相次ぎ、遂には第9代藩主・小出英及が元禄9年(1696年)に僅か3歳で死去すると無嗣断絶となった。
その後を受けて松平忠周が4万8000石で入ったが、宝永3年(1706年)信濃国上田藩へ移封された。
入れ替わりに信州上田より仙石政明が入り、仙石氏の支配で明治時代にまで至った。
明治4年(1871年)廃藩置県により出石県となる。その後、豊岡県を経て兵庫県に編入された。
[編集] 仙石騒動
有名な仙石騒動(せんごくそうどう)が勃発したのは、第6代藩主・仙石政美の時代である。藩財政の逼迫に伴い、筆頭家老の仙石左京は改革産業振興策を、もう一人の家老・仙石造酒は質素倹約の保守政策をそれぞれ主張し、対立していた。藩主・政美は左京の政策を支持し、それを背景にして左京は強引な改革を推進する。文政7年(1824年)藩主の政美が嗣子無くして没すると、江戸で後嗣を選定するための一族旗本らを含めての会議が持たれた。仙石左京は国許の代表として会議出席のため江戸へ出るが、その際に自分の子・仙石小太郎を同伴する。実際には仙石左京は会議の場で自分の子のことを持ち出すことはなく、継嗣は仙石久利ということで決するが、長年、左京の強引な藩政を快く思っていなかった反左京派は、左京の行動が不穏であるとして糾弾し、左京は失脚する。こうして藩政の実権は、仙石造酒派の手に落ちた。しかし、仙石造酒派は派内で争いを起こして自滅し、左京が再び政権の座に返り咲く。だが、反左京派の残党はおさまらず、左京がなおも自分の子を藩主につけるべく、藩主・久利の暗殺まで計画しているなどと誹謗中傷を繰り返し、ついに藩内の争いは幕府にまで届き、幕府の裁定を仰ぐこととなる。結果、天保6年(1835年)仙石左京は獄門に。出石藩も知行を半分の3万石に減封となった。
ちなみに、この仙石騒動が起こったとき、時代はすでに幕末の動乱期に突入していた。いわばこの騒動は、もはや時代錯誤と言えるような御家騒動とも言えるであろう。
[編集] 歴代藩主
[編集] 小出(こいで)家
外様 6万石→5万石 (1600年~1696年)
- 吉政(よしまさ)〔従四位下、信濃守〕 和泉国岸和田藩へ移封
- 吉英(よしひさ)〔従五位下、大和守〕 岸和田藩を継承
- 吉親(よしちか)〔従四位下、信濃守〕 丹波国園部藩へ移封
- 吉英(よしひさ)〔従五位下、大和守〕 岸和田藩より5万石にて再封
- 吉重(よししげ)〔従五位下、修理亮〕
- 英安(ふさやす)〔従五位下、備前守〕
- 英益(ふさえき)〔従五位下、大和守〕
- 英長(ふさなが)〔従五位下、播磨守〕
- 英及(ふさのぶ)〔夭折のため官位官職なし〕
[編集] 松平(まつだいら)〔藤井(ふじい)〕家
譜代 4万8000石 (1696年~1706年)
- 忠周(ただちか)〔従四位下、伊賀守・侍従〕
[編集] 仙石(せんごく)家
外様 5万8000石→3万石 (1706年~1871年)
- 政明(まさあきら)〔従五位下、越前守〕
- 政房(まさふさ)〔従五位下、信濃守 寺社奉行〕
- 政辰(まさとき)〔従五位下、越前守〕
- 久行(ひさゆき)〔従五位下、刑部少輔〕
- 久道(ひさみち)〔従五位下、越前守〕
- 政美(まさよし)〔従五位下、越前守〕
- 久利(ひさとし)〔従五位下、越前守〕 仙石騒動により3万石
- 政固(まさかた)〔従五位下、越前守。従二位、子爵〕