分部光賓
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分部 光賓(わけべ みつざね、宝暦6年5月22日(1756年6月19日) - 文化5年4月14日(1808年5月9日))は、近江大溝藩の第8代藩主。父は第7代藩主・分部光庸。母は黒川氏。正室は本多正珍の娘。側室は小沢氏。子に光弘、光邦、娘(小出英筠室)、娘(田沼意留室)、娘(安部信操室)。官位は従五位下、左京亮。名は光実とも。
宝暦6年(1756年)5月22日、大溝にて生まれる。幼名は善次郎。天明5年(1785年)3月10日、父が病気を理由に隠居したため、その後を継いだ。藩政においては中村徳勝を招聘して藩校・修身堂を創設し、天明8年(1788年)6月には心学者の中沢道二を登用するなどして学問発展に尽くした。また、藩内が博打などが横行して士風が緩んでいたため、博打を禁止し、厳格な法令を制定することで風紀の立て直しを図った。藩財政においても窮乏化を再建するため、自らが厳しく倹約することで見本とし、倹約令を制定して藩財政を再建している。俳句や茶道にも優れていた。
文化5年(1808年)4月14日、江戸藩邸にて死去した。享年53。後を子の分部光邦が継いだ。墓所:東京都港区赤坂の種徳寺塔頭松渓院。
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