別所長治
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 永禄元年(1558年)※異説あり | |||
死没 | 天正8年1月7日(1580年2月2日) | |||
別名 | 小三郎(幼名) | |||
戒名 | 英應院殿剛覚性金大居士 | |||
墓所 | 法界寺(霊廟)、雲龍寺(首塚) | |||
氏族 | 赤松氏、別所氏 | |||
父母 | 父:安治、母:浦上氏 | |||
兄弟 | 弟:友之、治定 | |||
妻 | 正室:波多野秀治の妹(または娘)の照子 | |||
子 | 竹姫、虎姫、千松丸、竹松丸 |
別所 長治(べっしょ ながはる、永禄元年(1558年) - 天正8年1月17日(1580年2月2日))は戦国時代の大名。別所安治の嫡男。通称は小三郎。正室の照子は波多野秀治の妹(娘とも)。
元亀元年(1570年)、父・安治の病死により叔父の吉親・重宗を後見役に若くして家督を継ぐ。
織田信長が中国の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしたが、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、妻の実家である丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となる。
これにより長治は、信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められることとなる。長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法に遭い、神吉城や志方城などの支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから二年後の天正8年(1580年)、妻子と共に自害して果てたという。
なお、別所重宗の嫡子で後の八木藩主・吉治が実は落城の際に連れ出され落ち延びた長治の子であるとする系図も伝えられている。
辞世:今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば。