三木合戦
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三木合戦(みきがっせん)は、1578年(天正6年)3月から1580年2月2日(天正8年1月17日)にかけての織田氏と別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨国の三木城(兵庫県三木市)に篭城した。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。
(※以後の日付は特に断りのない限り、すべて旧暦で記す。)
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[編集] 合戦までの経緯
[編集] 播磨と周辺の情勢
室町時代の播磨は、守護職赤松氏の領国だったが、嘉吉の乱で没落、後に再興されるものの一族や家臣の台頭を許す。室町後期の戦国時代になると、これらの勢力は半独立状態となって数郡ごとを領し割拠した。別所氏もその1つで、赤松氏の一族であり、東播磨一帯に影響力を持っていた。
周辺国では西の大国毛利氏とその幕下の宇喜多氏、畿内を制しつつある織田氏が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は毛利氏と織田氏の両方と友好関係を結んでいた。この二つの勢力も播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていたが、足利義昭の追放や石山本願寺の顕如の要請により、毛利氏は反織田に踏み切る。
播磨国内では、1577年(天正5年)5月に中播磨の小寺氏が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなる。同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略、上月城の守備に尼子氏を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入る。
しかし、織田・別所間の関係は同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和をきっかけに悪化。翌年の1578年(天正6年)秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りするが、同年3月、別所長治が離反し毛利氏側につく。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変する。別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される。
[編集] 離反の理由
別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものである。これ以外にも数多くの要因があり、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、織田氏による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟の対立、姻戚関係にあった丹波の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感などが挙げられる。
[編集] 三木合戦
[編集] 別所氏の篭城
三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まり篭城した。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり)だった。このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となる。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木氏などによって兵糧の海上輸送が行われた。別所氏側では、海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んだ。
[編集] 織田氏の対策
これに対し、織田氏は支城攻略の方針を採る。1578年(天正6年)4月、織田氏は支城の1つである野口城を落城させるが、同じ頃に毛利氏の大軍が尼子氏の上月城を包囲する。織田氏は東播磨での展開を一次中断、織田信忠を大将とした軍勢で上月城の救援に向かう。
膠着状態が続いたため、織田氏は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略する。毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しなかった。これを受けて織田氏は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢で6月から10月にかけて別所氏の主だった支城を攻略、また、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築く。これによって別所氏は補給が困難になる。
[編集] 兵糧の輸送と阻止
1578年(天正6年)10月、織田氏の武将荒木村重が離反し毛利氏側につく。荒木村重の領国摂津は、三木城から六甲山地を挟んで南側に位置する。これによって、摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹羽山を越え三木城へという新たな補給路ができる。
翌年の1579年(天正7年)2月、一応の補給路は確保されているものの、このままでは兵糧不足に陥ることは明らかで、別所氏はこの局面を打開するために織田氏の本陣平井山へ約3000人を出兵する(平井山合戦)。人数、地形共に別所氏に不利な状況であり、別所長治の実弟別所治定が討死するなど別所側の敗戦となる。
5月、織田氏は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となる。6月、反織田の共同戦線の一角、波多野氏の八上城が攻略される。織田氏の武将竹中半兵衛が平井山の陣中で没する。
9月、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行される(平田合戦・大村合戦)。毛利氏の補給部隊が織田氏の武将谷大善の平田陣地を攻略、別所氏側は三木城外の大村付近に出兵する。混戦になるが、別所側は淡河定範など多くの武将が討ち取られ敗戦となり、兵糧の搬入も失敗に終わる。
10月、毛利氏側であった宇喜多氏が離反、毛利氏の本国と播磨、摂津の間が分断され、毛利氏による支援が不可能な状況になる。織田氏は降伏勧告を行うが別所氏は拒否する。11月、共同戦線を張っていた荒木村重の有岡城が織田氏に攻略される。
1580年(天正8年)1月、三木城内の食料はすでに底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた。これをうけて織田氏は三木城内の支城を攻略、残るは本城のみとなる。14日、城主一族の切腹によって城兵の命を助けるという条件がでる。17日、城主一族が切腹、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了する。
[編集] 合戦後の影響など
- この後、織田氏は中播磨、西播磨の諸城を攻略し、播磨を平定する。
- 浄土真宗以外にも、中世には多くの寺社勢力が兵力を持っており、播州征伐に関わって兵火にみまわれている。
- 秀吉は三木城内の戦死者の供養や三木城下町の再興などを行っており、悲惨な合戦であったにも関わらずそれほど恨まれていない。
- 三木合戦以降、秀吉は城攻めにおいて兵糧攻めを用いることが多くなる。また、城主一族の切腹を条件に城兵は助命するということも何度か行うようになる。
- 秀吉の播磨平定によって、それまで「地方への玄関口」であった播磨に「畿内への玄関口」としての性格が生まれ、後に広大な姫路城が築かれることになる。