荒木村重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休七哲のひとりである。幼名を十二郎、のち弥介(または弥助)。明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名である。
|
||||
時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文4年(1535年) | |||
死没 | 天正14年5月4日(1586年6月20日) | |||
別名 | 十二郎。弥介(弥助)(幼名) | |||
諡号 | 道糞。道薫 | |||
官位 | 従五位下、摂津守 | |||
氏族 | 荒木氏 | |||
父母 | 父:荒木義村(荒木高村とも) | |||
子 | 岩佐又兵衛ほか |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 池田・織田家臣時代
天文4年(1535年)、摂津国池田城主・池田長正の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現・大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕えた。しかし織田信長が上洛してくるとその配下となる。智勇に優れており、信長からその才を認められて天正元年(1573年)に摂津一国を与えられ、茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げた。天正2年(1574年)、伊丹城主となる。
その後も信長に従って、石山本願寺攻めなど各地を転戦し、武功を挙げた。
[編集] 謀反
天正6年(1578年)10月、村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻した。一度は翻意し釈明のため安土に向かったが、途次寄った高槻城で家臣の高山右近から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。織田軍羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田官兵衛を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となり、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、ついで花隈城に移り、最後は毛利氏に亡命する。有岡城に残された妻子一族は末子の岩佐又兵衛ひとりを除いて、ことごとく京都で処刑された。
[編集] 茶人として復活
天正10年(1582年)6月に信長が本能寺の変で死去すると堺に戻ってそこに居住する。そして豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂に茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもった。はじめは妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。
天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。
[編集] 子孫
江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって逃れて、ただひとり生き延びた末子とされている。
[編集] 謀反の理由
村重の信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではない。ただ、信長は村重の才能を高く評価して重用していたため、その反逆に驚愕し、一時は翻意まで促したと言われている。
- 村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた秀吉の播磨、丹波方面に進出していた光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、戦略的な謀反だったのではないかという説。
- 村重の家臣(中川清秀という)が、密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。
- 信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(当代記に記述あり)。
- 天正元年(1573年)、村重は信長を近江の瀬田で出迎えたが、このときに信長が刀の先に突き刺して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わさせられたという怨恨説。